こんにちはゲストさん。会員登録(無料)して質問・回答してみよう!

解決済みの質問

山岡鉄太郎が居住していたと思われる場所

鉄舟山岡鉄太郎は静岡に存在した官軍の西郷隆盛に面会に行きました。
その頃鉄舟山岡鉄太郎が居住していたと思われる場所は大体どの辺りでしょうか?

早朝上野の横丁から官軍がひしめく東海道を勝の書簡を懐に鉄舟が単騎で走る。
西郷の本陣に着くと、
“直参山岡鉄太郎である。大参謀西郷殿にまかり通る”と大音声。
大刀を左腰から外しそれを右手に、案内も乞わずに式台の後ろの階段を上る。
西郷の部屋の前室の前。
”直参山岡鉄太郎である。大参謀西郷殿、出会いなされい”と大音声。

前室に入る。
勝の書簡を読んだ西郷。総裁の有栖川親王に一言の言葉もなく云う。
“分かり申した。お江戸を火の海にはしません。人を殺しません”

山岡鉄太郎を送り出した西郷。
“金も命も、名誉も地位もいらぬという奴は始末に負えぬ”と嬉しそうに述懐する。その地が浜松。

投稿日時 - 2019-09-11 08:33:56

QNo.9655631

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

環三通り播磨坂のあたりに文京区が設置した「高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡案内板」
があるそうです。

http://sannpo.iobb.net/wp-googleearth_e/%E5%B0%8F%E7%9F%B3%E5%B7%9D-2/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%B3%A5%E8%88%9F%E3%83%BB%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F%E3%80%80%E6%97%A7%E5%B1%85%E8%B7%A1


「早朝上野の横丁から官軍がひしめく東海道を勝の書簡を懐に鉄舟が単騎で走る」とありますが、下記「山岡鉄舟研究会」によれば、薩摩藩士益満休之助が鉄舟の従者として従っています。

山岡鉄舟研究会
http://www.tessyuu.jp/archives/2006/10/post_117.html

一部抜粋します。

「徳川慶喜から官軍との交渉について、直接指示を受けた鉄舟は、慶応4年(1868)3月5日、赤坂・氷川神社裏の海舟邸を訪ねた。玄関口で厳しく警戒されたが、ようやく海舟と会えた経緯については既にお伝えした。
だが、海舟邸に益満休之助がいることに鉄舟は驚いた。(中略)
(海舟は)薩人益満休之助を随行させ、更に西郷に宛てた添書を与えた」(勝部真長編『山岡鉄舟の武士道』)のであった。」

投稿日時 - 2019-09-11 11:25:01

お礼

詳しいご教示、本当にありがとうございました。

投稿日時 - 2019-09-11 11:46:36

このQ&Aは役に立ちましたか?

0人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

-広告-
-広告-

回答(2)

ANo.2

https://4travel.jp/domestic/area/kanto/tokyo/ryogoku/ryogoku/hotplace/11341432/

墨田区の堅川中学校の辺りに、その住まいがあったと伝わっているそうです。

山岡鉄舟は、馬に乗れたんですかね?江戸生まれの江戸育ちですから馬に乗る習慣がそもそもないですし、当時の武士の主な乗り物は「駕籠」です。あの赤穂藩取り潰しの知らせを赤穂に届けた武士は、早駕籠を乗り継ぎました。短距離の特急便を乗り継いだんですよ。そりゃそうとう揺られたと思いますよ。その知らせを届けたのちに過労で死んでしまったそうですから、相当だったでしょう。
そのうえ、山岡鉄舟は伝わるところによると身長188センチもあったといいます。日本の内国産馬は体高が120センチ程度ですから、足がつきそうなほどです。しかも、当時の馬は蹄鉄をしておらず、馬用の草鞋を履いていました。草鞋ですから、すぐ擦れて長距離を走るには向きません。そもそも江戸時代には馬で走るってことが基本的にはない時代ですからね。武士が乗馬するときは馬丁が轡をとっています。つまり歩行者以上の速度で走ることは原則的にはないのです。
時代劇では「急を知らせる早馬が駆け抜けるシーン」がお約束ですが、現実にはああいうのはまあ、創作といってもいいくらいだったと思います。単純な速度競争では、馬よりも飛脚のほうが早かったようです。

山岡鉄舟は今に伝わる写真でも肩の筋肉が尋常ではないマッチョなのがよく分かる人なので、相当に健脚だったのではないかなと推測します。

投稿日時 - 2019-09-11 11:29:39

お礼

詳しいご教示、本当にありがとうございました。
勉強になりました。

投稿日時 - 2019-09-11 11:43:27

-広告-
-広告-

あなたにオススメの質問

-広告-
-広告-