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解決済みの質問

吉良上野介屋敷を本所に移転させたのは。

松の廊下刃傷事件後、幕府は吉良上野介の屋敷替えを命じていますが、これは討ち入りしやすいように幕府が配慮したものだ、という説があるそうです。
Wikiにも 「この本所移転は、幕府によって計画的に行われたという説が有力になってきた。理由のひとつは表門の移設である」 と、それらしき記述があります。

この説の根拠を教えてください。
また「理由のひとつは表門の移設である」の意味が分かりません。
こうすれば討ち入りしやすくなるのですか。

よろしくお願いします。

吉良上野介
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE

投稿日時 - 2013-11-27 19:42:57

QNo.8364360

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

>この説の根拠を教えてください。
元々喧嘩両成敗という基本政策に反した将軍の短慮により処罰だということが早くから問題視されていました。
当時は、江戸町奉行の支配は隅田川の西側まででした。
本所は代官支配地という管理でした。
万が一何かが起きたときには、代官が一人腹を切れば済みますが、江戸町奉行の管轄地域内ということになると責任関係者が多数となり大事になります。
この辺を考えて推定すると、幕府黙認と考えた方が妥当性が高いと言われています。
真偽のほどは実は正確に解っている訳ではありません。

>また「理由のひとつは表門の移設である」の意味が分かりません。こうすれば討ち入りしやすくなるのですか。
wikipediaの説明不足かと思います。
吉良邸のレイアウトを見ると屋敷の東側が正門の目と鼻の先です。
突入後ただちに屋敷内に踏み込むことができます。
吉良邸の周囲には、お長屋と呼ばれる居室と塀を兼ねた、逆に言うと居室の壁が塀の代わりとなる構造の建物が取り囲んでいます。
この居室に警護の武士が寝起きしていました。
正門の位置を変えさせられたために、警護の武士が正門に駆けつける為には時間が掛かってしまうレイアウトになってしまっていました。
討ち入り側の負傷者が少なかったのもこれが幸いしました。
狭い室内での乱闘には短期決戦であれば少人数側が有利です。

投稿日時 - 2013-11-27 21:13:17

お礼

ご回答ありがとうございます。

あの刃傷事件は、「喧嘩」とみなされていたのですね。
本所は、下総国で代官支配地というわけですね。
それで、町人地と武家地が混じっていて、吉良邸の周りに浪士が生活できたのですね。
よく解りました。

しかし、表門を移設した理由についてですが、
確かに表門を東に移したから門を入ればすぐ玄関ですが、そんなことまで幕府が指図したということですか。
移設工事中は屋敷内が丸見えですから、よく見ておけと。
屋敷の絵図面もこの工事がきっかけでなどと、想像していくと、何となく分かってきたような気もします。
吉良側は当然対応策を取ったでしょうが。

投稿日時 - 2013-11-28 20:10:46

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回答(3)

ANo.3

再投稿失礼致しますm(_"_)m

誤解が生じるといけませんので、敢えて附言させていただきます。
八切止夫氏の説に素直に頷くとは申しましたが、これはあくまでも
私自身がド素人であることを強調するための言葉に過ぎません(><)
よって立ち位置はまったくの白紙状態のド素人なんです…

なのでメインテーマには殆ど触れず「表門移設」部分について、
Wikiで見つけたそれらしい理由を投稿したに過ぎません…
などと申し上げるまでもなく
賢明な kouki-koureisya 様におかれましては
最初から御理解いただいていらっしゃいますよね^^

でも、数々の疑問の御言葉が…私にぶつけられても…って当該サイトの形式上、
質問者様のお立場でも補足欄とお礼欄以外の選択肢はありませんから、
閲覧者全員に対する御言葉なのは理解出来ますが、
御納得いただけない理由を投稿したがために、新たな疑問が…
何とも責任を感じずにはいられない私でございます。

>この手紙の全文を知りませんが、

原本と言うわけにはまいりませんので、
結果真偽は?がついてまわりますが…

・『赤穂義士の書翰/宇治楽文編/良明堂書店/明43.8』
(236~238頁)<131・132/194>
九二 討入前日華岳寺に寄せたる大石良雄の書
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777400/132
(238頁1行目~)<132/194>
…色々在(L)之、御老中にも御存知之旨候得共、何之御いろひも無<L>之候、
其通に被<=>成置<->(なしおかれ)候事と察候、為<=>亡君(ぼうくんのため)<->
忠死を感心し道理か何之滞少も無<L>之、致<=>安堵(あんどいたし)<->罷在候、…

・忠臣蔵新聞 元禄15(1702)年12月13日(第194号)
http://chushingura.biz/gisinews07/news194.htm

>「表門の移設」を幕府が命じたという前提ですが、あまりにも唐突です。

同感です^^No.2投稿のとおり、私も「表門の移設」が幕府側の意図とは考え辛いです。

以上 さらなる疑問は御容赦下さい(笑)

投稿日時 - 2013-12-02 23:14:00

お礼

再度のご回答ありがとうございます。

前回のご回答に対して「お礼欄」に書いた私の拙文ですが、言いたい放題(書きたい放題)になってしまっていたことをお詫びします。
全てwikiの記事について疑問形で書いたのですが、私の配慮が足りず、dayone様にきつい言葉になってしまって、申し訳ございません。

近代デジタルライブラリーから「討入前日華岳寺に寄せたる大石良雄の書」を探し出して下さったのですね。恐縮です。
この手紙の存在は知りませんでした。
私は、大石神社の名誉宮司飯尾精氏の著書が正統であると信じ込んでいるのですが、この手紙についての記述はなかったように思います。
しかし、大石神社の立場から見て書かれた書物だけを信じていては片手落ちだと気付きました。
この手紙がどのように評価されているのか、いつか調べてみようと思います。

お陰さまで「表門の移設」だけでも、屋根番他いろいろと新しい知識が増えました。
ツッコンでみるものですね。楽しかったです。
今、疑問に思うのは、件の屋根番が上がった屋根の高さです。
商家なら2階建てかな、屋根に上がる方法は、それが分かる絵があればなど、とりとめなく独り言を言っています。

投稿日時 - 2013-12-03 20:42:12

ANo.2

御存知のとおり赤穂浪士に関しましては、
プロ・アマ問わず賢者の方々が無数にいらっしゃいますので、
(八切止夫氏の柳澤吉保陰謀説に、なるほどと素直に頷く)
私のようなド素人が口を挟む余地は無いのですが…

明暦三(1657)年の大火を契機に江戸市街拡張と大区画整理が実地され、
町小路の割替、宅地移転、新地築立や大名屋敷引替などが行われ、
万治二(1659)年に普請が始まり寛文元(1661)年に完成とも言われる両国橋架設と
相前後して本所の開拓に着手、本所では武家の下家敷と町屋の増加にともなって、
万治三(1660)年には本所奉行を創設、
元禄元(1687)年に至ると旗本240余騎が移されたのをはじめとして
本所では武家の下屋敷が一層増加、とは言いましても、
町屋・寺社等との混在ゆえ、辻番・自身番が混在する結果、
武家屋敷に囲まれた前住地と比べれば、手薄感は否めないかもしれません。

さて本題ですが、
真偽は別として、Wiki関連項目=根拠・典拠が?に過ぎないことを先にお断り申し上げます。
なお、御質問から長時間経過していますので、既に御確認済みかもしれませんが…

>また「理由のひとつは表門の移設である」の意味が分かりません。

仰せのとおり「Wikipedia>吉良義央」では、
「また、吉良邸の絵図面を見ると東に表門がありながら、表玄関の正面が南になっている。
表門を入ってから左に回りこまなければ玄関に入れない。」の記述、
何がなんだか分かりませんね^^

Wikipedia>元禄赤穂事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6

・20 その他─20.5 討入に関する説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E8.A8.8E.E5.85.A5.E3.81.AB.E9.96.A2.E3.81.99.E3.82.8B.E8.AA.AC

天和3(1683)年1月12日発令の触れによって町の防火対策として屋根番制度が始まった。
風の激しい時には屋根番を屋根の上に立たせて監視するというもので、
大岡忠相によって町の火の見櫓(10町に1つ)と火の見櫓のない町では
「枠火の見」と呼ばれる火の見梯子が設置されるまで、屋根番制度は続いた。
吉良屋敷の正面が南であった場合、
本所相生町2丁目の屋根の上に立てば表門周辺はまる見えになる。
東に表門を移設すればたとえ相生町2丁目で屋根番が立ったとしても、死角になる。
表門の移設は、町人に討入の実態を見させないための策であった。

・11 吉良家屋敷替え
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%A6%84%E8%B5%A4%E7%A9%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E5.90.89.E8.89.AF.E5.AE.B6.E5.B1.8B.E6.95.B7.E6.9B.BF.E3.81.88

うぅ~ん!? 上記Wikiの「11 吉良家屋敷替え」「20 その他─20.5 討入に関する説」からの
感想に過ぎませんが、本所移転&3名解任については、
幕府側の判断であることは揺るぎませんから、その流れを計画と呼ぶことは出来ますが、
表玄関が南向きにもかかわらず、南から東に表門を移設したことが、
仮に幕府側主導だったとすれば、あまりにも強引過ぎるようにも思えます…、
ド素人の私としては、何らかの事態を憂慮した吉良側の意図で防御策の一つとして
表玄関(南)と表門(東)とを隔てたと考える方が自然なようにも…
その結果として、屋根番云々ならば、まだ理解し易いのですが…?

あと、屋根番、辻番・自身番、死角などもう少し掘り下げられないかと、
少し当たってみましたところ、教えて!gooなど当サイトのQ&Aの中で
研究者らしき方(No.12)の投稿に出会しました。
http://okwave.jp/qa/q7229511.html
上記で残念なのは、典拠などが明記されていらっしゃいませんので、
真偽についてはド素人の私には判断出来ません(><)

以上 またまた中途半端ではございますが、疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

投稿日時 - 2013-12-01 16:30:26

お礼

ご回答ありがとうございます。

「討入は幕府主導で行われたものでした」という説ですが、疑い深い私は俄かに信じがたいですね。なるほどと納得できないですね。
誰が唱えた説なのか知りませんが、筋書きとしては大変面白いです。
しかし、この説の核心部分が大いに疑問です。

疑問1.
大石内蔵助が討入直前の十二月十三日に赤穂の3人の僧に宛てた手紙には、「関所も何事もなく通過し、江戸に着きました・・・若老中(若年寄)もご存じのようですが何も言ってきません。(討入は)うまくいくいくようです」という意味のことが書かれていました。

この手紙の全文を知りませんが、これは、江戸の同志の準備や作戦が綿密であったから「うまくいくようです」と希望的観測を述べたにすぎない、と思います。
かっこ内の(討入は)という追記は作為的です。
それとも全文を読めば、ある筋が討ち入りの道筋を整えてくれているから、という意味に取れるのでしょうか。

疑問2.
吉良屋敷のすぐ南の相生町二丁目の屋根番が屋根の上に立てば、討入は丸見えになります。表門が東なら、屋根番の死角になります。武家には緘口令をしくことはできても、町人にはできない。討入の詳細が江戸中に広がってしまいます。

だから、幕府は門から侵入せよと暗に指図したのだ、という論法ですね。
屋根番のことなど、浪士たちが承知しているはずはないのだからと。
討ち入りは、まず最初に門から侵入するものだと幕府は見込んでいたのでしょうか。
泰平の世の中、幕府はどこの塀でも乗り越えることができる鉤付きの縄梯子があることなど、ご存じなかったという設定ですね。

明りの乏しい元禄の真夜中、吉良邸の様子をそんな所から見たところで、「討入の詳細」が分かるはずはありません。
その夜は月明かりがあったというのは、後世に分かったこと。
“屋根番”の組織がそんなにきちんとしているなら、討ち入り後役人が“その夜のたった一人の屋根番”から事情聴取したはずです。そして、口止めしたはずです。多くの記録が残っていますが、そんな記録があるのでしょうか。

「表門の移設」を幕府が命じたという前提ですが、あまりにも唐突です。
この命令には移設させる理由が書いてなかったのでしょうか。同時に「塀を低くせよ」という指示はなかったのでしょうか。
とにかく、重要な手紙や幕府の通達の典拠が不明なので、幕府主導で討ち入りが行われたとは、とても思えないです。
討ち入りできたのは幕府がお膳立てをしたからだと言われると、苦労に苦労を重ねて大願成就した浪士たちは報われませんね。

投稿日時 - 2013-12-02 20:32:55

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