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参勤交代、国許へ

参勤交代で国許から江戸へ向かう場合、大名の供は途中で引き返したり、江戸到着後に直ぐに帰国す者も含め、一応、定められた人数を揃えているようですね。
それでは、江戸から国許へ帰るときはどうなのでしょうか。

出府の際は、勤番以外も供も含めての人数ですから、勤番の武士だけでは人数が足りるはずがありません。
どうやって人数を揃えていたのでしょうか。
それとも帰国の際には、供の数は少なくてもよかったのでしょうか。

投稿日時 - 2010-02-09 19:39:37

QNo.5662572

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

bungetsuです。
「つづき」です。

(6)「♪お江戸日本橋七つだち・・・」という歌がありますが、これは、庶民もそうですが、大名の出立時刻を唄ったものです。
つまり、朝七ツ(午前4時間頃)に宿から出立をしました。しかし、遠方の大名は、それでは間に合わないため、午前2時とか午前3時の出立もありました。ただし、これには幕府の許可が必要で、とにかく、陽のあるうちに距離をかせぎました。

(7)「下に~下に~」と先触れが声を張り上げますが、これは、自分の領内と、他家の領内に入る時、出る時。そして、江戸へ入る時だけでした。その他の場所では、供揃えも乱れて、雑談をしたり、景色の良いところでは、立ち止まって眺めたりして道中をしました。

(8)通行中のトラブル。
11代将軍家斉の頃、明石藩松平斉宣(家斉の第53子!!)が、御三家筆頭の尾張藩を通過中に猟師の源内という者の子ども(3歳)が行列を横切ってしまい、家臣はその子を捕らえ本陣へ連れて行った。ただちに、名主や坊主、神主までもが本陣へ行き許しを乞うたが、斉宣は聞き入れず、幼児切捨ててしまいました。
尾張藩はこれをおおいに怒り、使者遣わして「このような非道をするようならば、今より当家の領内を通らないでもらいたい」と伝えた。
どうなったと思いますか?
行軍を取りやめるわけにもいかず、まるで町人か農民のようにコソコソしたかっこうで尾張領内を抜けました。
さらに、数年後、猟師の源内は、斉宣が20歳になったのを期に、木曽路で得意の鉄砲で射殺してしまいました。もちろん源内は死罪になりましたが、子どもの恨みを晴らした、というわけです。

(9)老中とか若年寄りなどの役職者になると、常に千代田城(江戸城)に常駐しなければなりませんでしたので、参勤交代は免除されました。また、江戸時代、江戸城とは呼ばず、舞鶴城(ぶかくじょう)、正式には千代田城と呼ばれていました。庶民はただ「御城」と呼んでいました。

(10)また、その他にも役職(例えば、大阪城代、京都所司代など)になると、その場所に詰めていましたので、参勤交代はありませんでした。

(11)なお、老中や若年寄りなどを任命されるのは、譜代大名で15万石以下の大名に限られていました。なぜなら、経済力がある上に権力まで持たれては、幕府転覆を図られないとも限らなかったからです。しかし、その役職になってからの功績で加増をされた大名もいます。これは、家康の家訓で代々守られました。


まだまだ面白い話もありますが、この辺で・・・。

投稿日時 - 2010-02-10 15:01:17

お礼

知りたいこと、全てが含まれています。

回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2010-02-17 10:29:50

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回答(4)

ANo.3

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>それでは、江戸から国許へ帰るときはどうなのでしょうか。

同じ人数をそろえました。

>>どうやって人数を揃えていたのでしょうか。

まず、国元から江戸まで同行する者もいました。その者たちは、一晩下屋敷で宿泊をすると、翌朝には国元に向けて旅立ちました。
また、江戸から国元へ戻る時は、江戸藩邸詰の者が同行しましたし、事前に、国元から江戸へ来て下屋敷で待機する者もいました。
そして、「奴」と呼ばれるような人足は、宿泊する宿場で交替をし、バトンリレーをしました。
各宿場には「問屋御用掛り」(といやごようがかり)という者がいて、宿場を取り仕切っていました。財力はもちろん人望がある人が任命されていました。
役目としては、宿駅で、旅人の馬や駕籠の乗り換えの世話をする掛りで、参勤交代のための人足集めもしました。

(よもやま話)
(1)参勤交代は、慶長7(1602)年に加賀の前田利長が人質として江戸に暮らしていた母・芳春院を訪ねて江戸へ出てきたのが始めとされています。当然、将軍家にも「挨拶」をしました。これを知った大名たちも、将軍家に気に入られようと、また、反意がないことを示すために、江戸へ出府するようになりました。当初は、全く統制がとれていませんでしたので、何時でも自由に往来していました。もちろん、出府しない大名も居ました。
そこで、3代将軍家光が寛永12(1635)年に「武家諸法度」全19ケ条を定め、その第2条に「参勤交代」を制度化しました。

(2)人数については、当初は決まりがなく、加賀の前田家では、実に4,000人もの行列だったと言われています。享保19年(1642)の秋田藩をみてみると、家臣131人、医師5人、陪臣(家臣の家来)856人、御徒衆49人、御小人衆70人、足軽189人、夫丸18人御茶屋衆10人。総計1,350人、馬42騎。という史料が残っています。

(3)参勤交代の期日ですが、「夏四月中」と書かれてあり、現代の太陽暦で言うと、およそ5月で、入梅以前に参勤するよう命じています。
その後、寛永19(1642)年(家光)になると、西国の譜代大名の参勤交代は2月。関東、東海の譜代大名は9月。外様大名は依然として4月、というように、時期をずらしています。これには、ご存知かとは思いますが、譜代大名をして外様大名の監視をさせていたためです。
また、隣接する藩は、お互いの話し合いで交互に参勤しました。
例えば、「豊前」と「豊後」の藩主たちを見てみると、中津、杵築、府内の3藩が譜代大名。日出(ひじ)、臼杵、佐伯、岡、森の5藩が外様大名でしたので、杵築藩主能見(のみ)松平氏と府内藩主大給(おぎゅう)松平氏は交互に在国していました。また、外様大名の岡藩主中川氏と臼杵藩主稲葉氏も交代で参勤しています。このような制度を「御在所交替」と呼びました。もう少し詳しく書くと、
子、寅、辰、午、申、戌が中津奥平氏、杵築松平氏、臼杵稲葉氏、佐伯毛利氏。
丑、卯、巳、未、酉、亥が府内松平氏、日出木下氏、岡中川氏、森久留島氏、という記録があります。
従って、全ての大名が一同に会することはありませんでした。

(4)参勤交代では「道中奉行」が先回りをして宿泊する宿を手配していましたが、夜六ツ半(午後8時)までに宿に入らなければ、宿側も断ることができ、その時は「野宿」をしました。
もっとも、参勤交代は「軍事行軍」とみなされていましたので、陣幕や鍋、釜、食材、風呂桶、はては、殿様用便器などなど、すべて持ち歩いていました。
また、宿に宿泊しても、食事は宿の料理人が作るのではなく、宿の調理場を借りてお供をしている「御膳掛り」が調理しました。

(5)また当然、他家の領内を通るわけですが、この場合、通る方は、「およそ何日ころ通過します」と使いをたてて「礼」を述べ、通行される方も道や橋の整備などをして、まあ、お互いが気をつかいました。
しかし、他家との交流は、一切禁じられていました。もし、仲良くなって、幕府転覆などの話をされては困りますので、このことは、厳しく周辺の藩に監視されていました。あくまでも、使いの者が行き来するだけでした。
また、参勤交代は、行軍とみなされていましたので、途中で、他家の藩主と会ったりはできませんでした。


文字数制限に近くなりましたので、「つづき」をご覧ください。

投稿日時 - 2010-02-10 14:49:04

ANo.2

>江戸から国許へ帰るときはどうなのでしょうか。

参勤交代の方法は、石高で詳細な決まりがありました。
これには、江戸へ向かう場合も国許に戻る場合も同じです。

>どうやって人数を揃えていたのでしょうか。

各宿場の有力者に「事前に求人」をかけます。
参勤交代は、移動式炊飯器・便所・風呂まで持参した大名もいます。
「何故、こんな仕事まで」と思うのですが、他国の領地を通過するには安心できなかったのでしよう。
侍は雇う事が出来ませんが、奴連中(雑用係り)は雇う事が出来ます。
現在で言う「一種の派遣」でしようか。
「俺は、○○藩の経験がある」と、威張っていたそうです。
藩としても「こちらの方が安上がり~」

ちなみに・・・。
元禄時代の四国にある小藩。
農家の次男坊三男坊を、年俸3両で1年単位で雇っています。

投稿日時 - 2010-02-09 23:38:35

お礼

>各宿場の有力者に「事前に求人」をかけます。

大名行列から利益をあげる人がいたのですね。
回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2010-02-17 10:28:40

ANo.1

六組飛脚問屋などに委託した通日雇などによってまかなっていました。
平たく言うと、フリーターのアルバイトです。

投稿日時 - 2010-02-09 21:11:22

お礼

臨時雇いを利用したのですね。

回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2010-02-17 10:26:45

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