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解決済みの質問

散文詩と小説の違いについて

私は今、中学生なのですが、国語で授業で詩について勉強しています。
そこで、疑問を持ったのですが、外国人の作った詩はリフレインが続いていたりしてとっても長いですよね。詩と小説の境目はどこにあるのでしょうか。もしかして、外国では散文詩と小説の区別がなかったりするんですか?

特に、音楽で出てきたヴォルフガング・ゲーテのドイツ歌曲=リート「魔王」なんかになると、どこか詩なんだと叫びたくなってしまいます。ちゃんとストーリーがあるし、叙情詩ではなく叙事詩といったような趣きがあるのですが……「古池や」とか「雨にも負けず」が詩だというのが普通だった私にとって、理解しがたい点です。

投稿日時 - 2003-01-30 18:15:39

QNo.459575

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

中学生さんが、学校の国語の授業だけでは理解できないのも当然でしょう。
たぶん、ですが、指導要領にそこまで教えるように書いてないんですね。
で、「短い行を幾つも並べたのが詩だ」なんて誤解が生ずるのです。
長くなりますが、覚悟はいいですか?(笑)

詩は韻文で、小説は散文ですね。
では、韻文と散文の違いって何でしょう?
小生も義務教育の頃、「自由詩」「散文詩」ってのが出てきて、何だか分からなくなった覚えがあります。
韻文とは、韻律を具えた文のこと。散文は、韻律を具えていない(のではなく、韻律を気にせずに作った)文のこと。

では、韻律とは何であるか。
ヨーロッパの詩(古代ギリシアを除きます)、中国の詩(これは全時代に共通)において、韻律とは押韻のことです。
押韻というのは、詩の一行一行の出だしかお終いの発音をそろえること。
小生の師匠は、「語呂合わせですから」って身も蓋もないことを仰有ってましたが。
例えば、例に挙げておられる「魔王」。日本語の訳詞を見てたんでは、それこそ散文との区別が付かないですね。
原文の冒頭はこんなです:
Wer reitet so spat(aの上に¨がつきます)durch Nacht und Wind?
Es ist der Vater mit seinem Kind;
Er hat den Knaben wohl in dem Arm,
Er fasst ihn sicher, er halt(aの上に¨がつきます)ihn warm.
各行のお終いを見て下さい。ドイツ語が分かんなくても、同じ綴りが繰り返されてるのは分かりますね? 一行目は「ヴィント」(風)、二行目は「キント」(こども)。ヴィントとキントとで、押韻(語呂合わせ)。三行目と四行目も、「アルム」(腕)と「ヴァルム」(温かく)とで、語呂合わせ。
こんなふうに、語呂合わせを繰り返してどこまでも行くのです。押韻をしている限り、どんなに長くても「詩」です。
押韻のやり方には、幾つか種類があります。「魔王」は一行目と二行目、ですが、ベートーヴェンの「交響曲第九番」の歌詞は、一行目と三行目、二行目と四行目、という具合に押韻してます。3の倍数の行だけ押韻する例もあったはずです。

アクセントの規則というのもあります。アクセントには、言語によって「高低」「長短」「強弱」などの種類がありますが、例えば母音の「長」「短」を、ある規則に従って並べなければならないのです。古代ギリシアの詩、すなわちホメロスの「イーリアス」「オデュッセイアー」などは、押韻はしていませんが、アクセントの並べ方が規則的なので、韻文、つまり「詩」に分類されるのです。岩波文庫で何冊にもなるほど長いですが、長くたって「詩」です。ちなみに、(日本語訳だけ見てるとそういう誤解があって当然ですが)、「長いから叙事詩」というわけではありません。叙事詩は長くなりがちですが、叙情詩だって長くなっていけない訳ではありません。

日本では、アクセントはまず気にする人はいませんね。百人一首を読むときに、係り結びや縁語・枕詞については注意するでしょうが、「アクセントに注意して読みなさい」なんて聞いたことないですよね。日本語ってアクセントには鈍感な言語で、昔のテレビアニメのロボットや特撮の宇宙人は(ああっ、トシがバれる!)、みんなアクセントの高低のない、真っ平らな日本語をしゃべっていました。日本語って、それでも分かっちゃう言語なんですよね。例えば現代中国語では、真っ平らに(高低をつけずに)しゃべったんでは意味不明になります。だから「アクセントの規則」なんてこだわりがあっても、誰にも分かってもらえない。わかってもらえないんじゃこだわっても仕方ないですね。
押韻の方はどうでしょう。語呂合わせですから、誰でも簡単にできちゃいますね。オヤジギャグって言ってバカにされるくらいで。で、誰でもできることを文学者がしたって誰も褒めませんよね。日本では、谷川俊太郎さんと井上陽水さんとが、押韻に挑戦して成功した例外的な人です。

近代になって、既存のことをやっていたんではつまらない、って考える人が現れて(何の分野でもそうですが)、韻文で小説を書いたり、散文で詩を書いたりし始めました。例えばプーシュキンの「イェヴゲニイ・オネーギン」は韻文で書かれています。そこで「韻文小説」と言われますが、「物語詩」って書いてある本もある。「詩」の定義からすると「イェヴゲニイ・オネーギン」は「詩」なんですが・・・。この辺は作者のネーミング(カテゴリー分類)に従うしかないんでしょうね。

日本の「詩」には韻律らしい韻律はありませんから、小生は「日本には詩はない。日本語は詩には向かない」って立場です(ああっ、国文の人から雨霰の非難が・・・)。平安朝の人々もそう思ってたみたいで、古文で「詩」と言えば漢詩のことに決まっていました。和歌はその通り「歌」。
明治になってpoemが入ってきたときに、これを「詩」と訳した。この「詩」が漢詩だけを指すのなら、大して問題はなかったのです(どっちも韻律を具えているから)。問題は、「詩」に和歌や俳句を含めてしまったこと。当時の文学者たちのヨーロッパへの対抗心のなせるわざだと思いますが、お陰で今の中学生が悩まなきゃならない。現代日本文学における「詩」の定義、分かり易いものがあれば小生もうかがいたいです。

長々と失礼しました。読むだけでも辛かったでしょう。文意が伝われば幸いです。

投稿日時 - 2003-01-30 19:32:58

お礼

ありがとうございます。これで完璧理解できました!

昨日と今日で、「魔王」の原文をノートに書き写していたんですが、やたらと似た様な文面が続くのは、押韻を意識してあるからだったんですね。きっと「ファウスト」も詩になってたんでしょう。日本語版の本と、フランス語のテープしか見てないんですが、日本語版は詩的に(=押韻をふまえて)訳してありました。訳者は詩人なんだろうなーとかぼんやり思いながら読んでたんですが。

谷川俊太郎は大好きです。彼の「マザーグース」の翻訳は本当に素晴らしーです。元々、マザーグースって押韻の為だけに作られた様なナンセンス詩なんですってね。だからハンプティ・ダンプティはwall(塀)の上にいてfall(落下)する羽目になった、と。

本当にすっきりしました。長くても分かりやすければいいです(笑
私はたまに活字中毒になっちゃうくらいですから、このくらい楽勝(^0^/)
それにしても、学習指導要領から外されているらしい事は、本当にたまりませんねー。私は私立の中学ですが、問題集に「韻文・古典」という単元があって、わざわざ宿題に出されたのに、「韻文」の説明は何ひとつありませんでした。私も、単に押韻を含んだ詩の事だと思って放っておいたんですが、日本では詩全体を指すんですね。

元はといえば、日本の俳句や短歌を「定型詩」として詩のひとつになり下げちゃった日本政府に問題があったんですね、今更って感じだけど……
小泉純一郎サン、郵政事業民営化の前にもうちょっとマシな教育改革やろうよ?
がんばれ、文部科学省and小泉内閣の皆様。
……ごめんなさい、中学生の分際で生意気な(笑

詳しくかつ分かり易く、ご教授ありがとうございます。拙者も精進致し仕りまする(文法滅茶苦茶、^^;)。また、どこかで会う事があればよろしくお願いします。

投稿日時 - 2003-01-31 17:57:22

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回答(3)

ANo.3

ふっふっふ・・・出たなヒトデ(笑)
って、お気を悪くなさったらごめんなさいね。
こういうカテゴリーの質問には、maris_stellaさんか aminouchiさん辺りがお答えになるだろうなと思いながら、お二人ともまだお見えでなかったので書いたんですが・・・。
そうですね、「歌」のことは書いとくべきでしたね。うっかり失念してました。ベートーヴェンの第九まで出してるのに。
中国で言うと、紀元前の詩は歌われていたらしい。唐代(李白・杜甫の時代ですね)になって、「詩」が文学(つまり「歌うもの」でなく、文字に書いて目で読むもの)になっても、一部にはまだ「歌う」習慣が残っていたらしいです。どういう証拠があってそれが分かるのか、参考書には書いてないんですけれどね。
日本の和歌だって(和歌は「歌われるもの」ですから、まだ「韻律がある」と言えないこともない)歌われていた。いまほとんどその習慣は失われていますが、五月川さん(失礼)ならご存じでしょう、正月に宮中で行われる「歌会始」、あの時に召人が妙な節を付けて和歌を詠み上げますね、あれが和歌についていた「歌」のメロディーらしいです。何百年も口伝えで伝えられてきたんだから、そっくりそのまま残ってるとは考えにくいですが、まあああいう雰囲気のもんだと思えば間違いないでしょうね。
古代には詩は歌であった。だからこそ、ギリシアのアポローンは、詩の神であると同時に音楽の神でもあるのです。

投稿日時 - 2003-02-01 23:15:27

お礼

補足ありがとうございます。

>こういうカテゴリーの質問には、maris_stellaさんか aminouchiさん辺りがお答えになるだろうなと思いながら
……彼らがお見えになるまで締め切らない事にしますわ(笑

「歌会始」なんて聞いた事はあっても見た事はありませんが、和歌も歌うものなんですねえ。中学入試の時、塾の一番若手で社会の教師だったジョニー(モチ仇名です)が、激励の為に四行詩を詩吟してくれた事がありました。諸々の事情で一度聴いた事があったのですが、迫力だったなあ。

>古代には詩は歌であった。だからこそ、ギリシアのアポローンは、詩の神であると同時に音楽の神でもあるのです。
なるほど。アポロンは竪琴を弾きながら詩を唄うんでしょうかねえ……

投稿日時 - 2003-02-02 10:28:08

ANo.2

 
これは難しい話ですが、「詩とは何か?」という質問だと考えます。No.1 の方も、「詩とは何か」について答えられているように思えます。「散文詩と小説の違い」というと、この問いに答えようとすると、「小説」と「物語」の違いは何かという話になります。

小説というのは、英語で、novel と言いますが、これはフランス語で、nouveau, nouvelle(ヌヴォー、ヌヴェル)という形容詞があり、これは「新しい」という意味で、ここから名付けられていて、従来の物語文学に対し、近代人の心の綾などを描く、「新しい文学」というので、「小説 nouvelle」と名付けたのです。

しかし、そういう話になると、多分、質問の本意とそれますので、「詩とは何か?」という問いだと考えます。

これはたいへん難しい問題で、「韻」の有無で詩か詩でないかが決まる訳ではないのです。「韻」を踏んでいても、詩でない作品がありますし、「韻」を踏んでいなくても、詩とされる作品があるからです。ここでの「韻を踏む」というのは、「韻文」のことだとします。

まず、話の難しさとして、「詩と歌は区別が付くのか」という問題があります。これは、意見が色々あるかも知れませんが、文学・文芸の歴史から見ると、「区別が付きません」。

近代的、現代的な理屈において、詩と歌の区別を付けようとしたのですが、歴史的に省みると、両者は、同じものに起源が収束して行きます。これを、「詩歌」と呼んでもよいのですが、ここではわざと難しく、「ポイエーシス」と呼びます。

ポイエーシスは、二つの志向を持つとされます。というより、二つの方向性を持っていたのです。一つは、「音楽への志向」で、もう一つは「意味・メッセージへの志向」です。元々、ポイエーシスは、音楽的側面と意味開示側面の両方を持っていたのが、近代・現代になって来ると、この二つの側面が分離されて来た結果、ポイエーシスの二つの志向性というような問題が起こったのです。

昔の詩やうた、つまりポイエーシスは、すべて音楽的性質を持っています。それは、これらの作品が、朗誦することを前提に造られていたからです。「韻」とか「律」つまり「リズム」は、音楽を構成する要素ですし、これらが明瞭になって来ると、ポイエーシスの朗誦ではなく、「歌唱」になります。

「歌唱」の極端なものとしては、スキャット形式という、例えば、「風の谷のナウシカ」に出てくる「王蟲との交流」における、「ラン・ラッラッラ・ランラララ……」というような、「言葉の意味」がないものがあります。これは、人間の声を楽器にして、音楽を演奏しているようなものです。

しかし、普通は、「歌詞」があります。そして歌詞には、「意味」があるのです。

叙事詩と呼ばれる文学カテゴリーは、どの古代民族も持っているもので、古代ギリシアのホメーロスのものが有名ですが、世界中にあります。叙事詩は、楽器の伴奏が付いたり付かなかったりしますが、基本的には、「朗誦」します。

「歌唱」とまでは行きませんが、「音楽的な言葉」なのです。そして、その音楽性に乗って、色々なイメージやメッセージや情景や、できごとなどを「うたって行く」のが叙事詩です。

言葉の音楽性というのは、詩の技巧、ポイエーシスの技巧としては、先に述べたように、「韻」と「律」があります。また、この両者を兼ね備えたものや、分類の難しい特殊なものもあります。

(次のURLを参照してください。このページは、時々開かないことがあるので、URLを記録し、時間が経ってから、開くかどうか試してみてください。http://www.max.hi-ho.ne.jp/aisis/memo-random-1/r-poetry.html)。

「韻」というのは、代表的には、「脚韻」と「頭韻」があります。ゲーテの『魔王』における、行の最後の単語の Wind, Kind などは、「int」という形の「脚韻」を持っているということになります。これに対し、「頭韻」というのは、例えば、マザーグースの、sing a song of six pence……という歌詞の言葉が、sの音の頭韻を踏んでいるのです。

頭韻は、効果的に使われるとき、非常に美しい、あるいは感銘的な音楽性をもたらします。

「律」は、「韻律」とも言うのですが、英語では、これは、「ミーター(meter)」と呼びます。(「歩格」という訳語があります。また「韻律」とも言います)。

中学の英語の教科書には、普通、英語の詩が出てくるのですが、ミーターの技巧というのは、説明しないのではないかと思います。ワーズワースの Lucy という詩の第二連を例に取ると、次のような技巧になります:

A violet by a mossy stone
  Half hidden from the eye !
- Fair as a star, when only one
  Is shining in the sky.

この第一行と第三行の終わりは、stone(スタン)、one(ワン)です。そして第二行と第四行の終わりは、eye(アイ)、sky(スカイ)です。これは脚韻になっている訳で、交互脚韻です。また、half hidden というのは、頭韻だとも言えます。この詩の「ミーター構造」は、実は、英語を読める人には、自明なのですが、説明が必要です。

英語は、強弱アクセントで、強く発音する音節と、弱く発音する音節があります。単語で見ても、意味的に重要な単語は強く発音し、そうでない単語は、弱く発音します。こういう、強弱の区別から、上の詩は、次のようなミーター(韻律)構造を持っています。

A [vio]let [by] a [mos]sy [stone]
  Half [hid]den [from] the [eye] !
- Fair [as] a [star], when [on]ly [one]
  Is [shi]ning [in] the [sky].

[ ] で囲んだ、部分あるいは単語が、強く発音する部分なのです。これを見ると、「弱強弱強弱強弱強」と一行目と三行目はなっており、「弱強弱強弱強」と二行目と四行目はなっていることになります。強い部分と弱い部分が、規則正しく交互に出てきているのです。

これを、「弱強」脚ミーターと言います。このように、英語のような強弱アクセントを持つ言語では、音節の強弱や、単語の文章内での重要度に応じる強弱などに基づいて、「強弱」「弱強」という基本的に二つのパターンがあり、これが組合わさって、もっと複雑なミーターのパターンができます。

ワーズワースの上の詩だと、奇数行は、八脚で、偶数行は、六脚になっています。
「魔王」のドイツ語の文章だと、第一行から第四行は、次のようになります:

Wer [rei]tet [so] speat /durch/ [Nacht] und [Wind]?
Es [ist] der [Va]ter /mit/ [sei]nem [Kind];
Er [hat] den [Kna]ben /wohl/ [in] dem [Arm],
Er [fasst] ihn [sic]her, /er/ [haelt] ihn [warm].

これら四行は、「弱強弱強弱|弱強弱強」となっていて、「弱強」が基本ですが、少し乱れています。しかし、音節数は、9個で一定であることが分かります(前半5音節と、後半4音節に分かれています。またこれは、意味的な分かれです)。また、in dem Arm というのは、普通のドイツ語だと、im Arm となり、in dem は、im という形に短縮されるのですが、この場合、韻律を築くため、わざと、in dem のままに残しているのです。

ミーターは、リズムを造ることで、言葉の進行をリズミカルにし、音楽性を与えるのです。脚韻も実は、同じ母音音節で終わるということで、一行一行に反復のリズムを与えるための工夫だと言えます。頭韻は、その部分での言葉の続きに、同じ頭子音の反復で、音楽性を与えているのです。
 
詩またはポイエーシスの音楽性を築くための技巧は、他にもあるのですが、音楽性があれば、ポイエーシスになるかというと、違うのです。その極端な例は、先にあげた、「ナウシカ」のスキャットです。「ラン・ラッラッラ・ランラララ……」というのは、音楽的ですが、これを詩とは言わないのです。

つまり、ポイエーシスには、音楽性以外に、意味内容、意味開示性が必要なのです。ホメーロスの叙事詩は聞いている人を感動させますが、それは、叙事詩人がうたうホメーロスの詩の言葉に意味があるからです。

情景を描写し、起こった事件、できごとを語り、こうして、滔々と、ヘクサメトロンの律動に乗って、英雄たちの行動や、心のなかや、事件を語って行く裡に、共鳴や、感動が生まれてくるのですし、単に、話が感動的でなく、どういう風に描写し、どういう順序で、どんな言葉を使って語りうたうか、で感動が生まれたり、生まれなかったりするのです。

英語の詩でも、脚韻を踏み、ミーターに従い、音楽的によくできていても、何の感銘も受けないような内容では、少なくとも、優れた詩とは言えません。

他方、伝統的な詩、ポイエーシスの持つ音楽的技巧はなくとも、読んでいて、その叙述や、語り方、表現の仕方に、深い感動が出てきたり、言葉の使い方にポイエーシスと同じ素晴らしい効果がある文章は、これもポイエーシスだと人々に受け取られます。

この意味開示性や言葉の技巧において、ポイエーシスとして成立する作品の概念を、「散文での詩」と考えると、そこに「散文詩」という概念が出てくると言えます。

(日本の詩は、明治初期の島崎藤村の頃のまだ伝統的な575の音律を残した作品以降になると、文章を、行別に書いているのと変わりないようになります。ただ、行と行のあいだに飛躍があるので、連続散文とは言えない形です)。

ポイエーシスの本質とも言える何かを、「ポエジー」と呼べば、韻文を使い、音楽性を築いていても、詩的感興のない、つまりポエジーの感じられない作品は、詩ではないと言えますし、散文の形を取っていても、ポエジーの感じられる作品は、詩だと言えます。

しかし、ポエジーとは何か。それは音楽性と、意味や表現の開示性に関係あることは分かっていますが、誰もが納得する基準というものが見つかりにくいのです。

少なくとも、外国語の詩を日本語に翻訳するということは、その韻律、音楽性の再現は不可能ですから、それでも翻訳するのは、意味や表現の開示性に、翻訳しても残るポエジーがあるからです。しかし、このポエジーは、訳者によって、また訳し方によって、感じられたり、感じられなかったりします。

こういうことからすれば、あるいは、原文は同じ外国語の詩で、違った複数の訳者の訳を見てみて、ある場合はポエジーを感じられるが、別の場合は感じられない、また、感じるポエジーの質が訳者で違いがあるとすると、翻訳の詩のポエジーは、訳者が日本語の世界のなかで、ポエジーを創造しているのではないかという可能性が高いことになります。

元の作品にポエジーの感動があるのですが、これをいかに日本語で表現するかで、意味の概略は、原文を翻訳すれば表出されるとしても、それだけでは、日本語のポエジーは成立しにくいということになります。
 

投稿日時 - 2003-02-01 09:21:26

お礼

詳しいご回答、ありがとうございます。
結局、詩の条件というのは
1.音楽的要素(韻・律=ミーター)が含まれている
2.言葉としての意味が存在する
3.詩的感興がある
*優れた詩の中には1の例外がある
ということになるのでしょうか。詩の翻訳は難しいのですね。ぜひとも、名文……じゃなくて名詩を原文のまま読んでみたいものです。ドイツ語は勉強を始めたばかりなのですが、将来フランス語なんかも読めたら、沢山の詩に感動できるでしょうね。

投稿日時 - 2003-02-01 13:57:05

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