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解決済みの質問

価値の哲学 なぜ?

自然は、自然法則の元に平等です。
人は、平等には満足できず、区別や差異に関心を持ち、よって、自分の世界観を(認識の世界)築くのではないでしょうか。ここに「価値」の根源があるような気がします。
主体が、(事実の世界)を認識する、最初の尺度に「価値」と言う概念を持つとすれば、「価値」にこだわらざるを得ません。
たとえば、「価値」と「善」の関係です。上記の理由から、「価値」は「善」・「美」・「しあわせ」等の上位概念と私は考えますが、みなさんはどう思われますか?
ここが間違っていたら、この種の質問で皆様を煩わす必要はなくなるのですが。
今回は、「真」については、意図的にはずしましたが、「価値」と「善」の関係を中心に、ご意見を伺いたいと言う程度の意味合いです。

投稿日時 - 2002-07-06 10:32:26

QNo.307795

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

●価値は 他者との関係を処理するために自然発生した概念であると
 わたしは 解釈してるんです。(自分では辞書の解釈より深いとおもってます。)
 自然発生した価値という概念は 経済を生みミームの蓄積により
 自然発生しない権利だとか宗教というものに代表される概念にも
 価値を与えました。このあらゆるミームは時間による淘汰の仮定にあり
 現在わたしたちは その淘汰のまっただなかに存在し生きていると言えると
 思います。善とは 自我のなかに存在する感覚のひとつで。
 その本質は本能の指し示す領域だと認識しております。けれども善は
 ミームにより影響をうける部分で 愛などとは異質のものです。
 つまり 善はひとそれぞれにちがう働き方をするわけで
 異なる宗教間で ものごとの捉え方が違うのはそこに由来していると思います。
 善は価値の概念より 上層にあり 発生も善はすでにものごころついたときに
 あり 価値はことばの獲得の末に発生していると考察しております。
 言葉の獲得の以前の選択行為は 価値という概念には関係なく本能に近い
 真善美に由来していると考察しております。

投稿日時 - 2002-07-06 11:56:16

お礼

chihokoさん、ご回答有難うございます。
「価値とは、他者との関係を処理する為の概念である」
久しぶりに出逢った、懐かしい言葉です。昔の質問を振り返ってみましたが、正直に申し上げて「関係」の意味が全く理解できていなかったような気がします。
ここでは、価値の発生の、歴史を考える気持ちは有りませんし、人の成長過程による価値観の変遷にも感心はありません。
理性を持った主観が、対象としての外界を、自分の世界として認識する時、価値の概念によって、主観の世界が作られるのではないでしょうか。
お手柔らかにお願いします。

投稿日時 - 2002-07-06 17:48:51

ANo.1

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回答(13)

ANo.13

●なんか わたしの言いたいことが fishbowl66さんに伝わらなくて
 疲れちゃいます。価格とは限られた事象の価値を表示した数字ですから
 わたしが価値といっているものとは 全然意味が違います。
 あらゆる価値を一言で表現しようとすると わたしが言うようになるんです。
 それが価値の正体だと わたしは考えているし このわたしの捉え方を
 抜いた発想をできる人をわたしは知りません。
>価値が、善や正義を含んでいる
 価値はそんなかっこいいものじゃありません。善は自我の独立した感覚ですし
 正義は一言で語れるほど 正しいものではありません。
 価値という概念の発生がいやしいのです。
 価値に善や正義を植え付けるより 価値を無意味なものにしてしまって
 物事の本質で捉える考え方にシフトさせる方が楽ですよ たぶん・・・。

投稿日時 - 2002-07-11 01:48:22

お礼

chihokoさん、ご回答有難うございます。御礼が遅くなりすみません。
やっぱりと申しますか、前回のお礼を書いたあと、こんな単純な事では無いと、思っていましたが、まだまだ深い溝があったようです。
真面目に教える方も、真面目に教わる方も確かに疲れますね、またしばらく、慰安の風に吹かれてのんびり暮らすことにします。

投稿日時 - 2002-07-12 18:08:25

ANo.12

●他者との関係を処理するための概念が価値である。
 この処理が よくイメージできないようですので 解説します。
 処理とは 物事をさばいて始末をつけることです。
 たとえば離婚処理 事故処理 取引の処理 倒産の処理
 恋愛は処理ではなく過程そのものですし 家族は状態です。
 他者との関係に折り合いをつけようとしたとき
 価値という概念が自然発生します。価値が市場原理に従って
 ひとつの普遍性をもっているからです。供給と需要という自由取引の
 産物です。その価値に折りあいの基準を求めようと意識が働くのです。
 いかに価値観が違っていても 市場原理に元づく価値には
 だれもが妥当性を見出せる可能性があるからです。

 だから 価値はこわいのです。 わたしたちのあらゆる局面に価値が
 入り込んでしまいます。あとは 規範やモラルの問題です。
 愛や家族や伝統や あらゆる大切なものが価値づけされるでしょう。
 処女が売り買いされるように・・・。
 だから 価値の本質を見なければならないのです。
 ものごとの本質に価値はなく 経済や人間の欲望が価値を生み出している
 現実に気付かなければなりません。
 善の本質に価値はありません。しかし善に価値を見る人々はたくさんいるでしょう。
 なぜなら 経済と人間の欲に毒されてしまっているからなのです。
 fishbowl66さんのように考えようとする方は いい方です。
 考えもせずに 価値という概念にふりまわされている方々のいかに多いかを
 fishbowl66さんも知ってらっしゃると思います。

 だから価値ってなんなのさ?
 わたしは何度もいってるでしょ。他者との関係を処理するための概念ですと・・・。

投稿日時 - 2002-07-10 09:08:58

お礼

chihokoさん、ご丁寧な回答有難うございます。
お蔭様で、ひょっとすると「違いの判る男」になれたかも知れません。
小さな違いか、深い溝かは判りませんが、2点ほど違いがあるようです。
最初の点は、chihokoさんの言う「価値のこわいところ」を私は価格と表現して、価値とは区別した方が良いのではと考える点です。
次の点が今回の質問の主旨ですが、価値が、善や正義を含んでいると考えている点です。
そのため、「他者との関係を処理するための概念」は私の考えでは、価値ではなく価格に近いと思いますし、価値ではなく、貨幣(お金)や価格にふりまわされいいる人が多いと考えてしまいます。
だったら、価値と価格の違いはなんなのさ?
善や正義の欠如であると言う仮説を証明したいのです。

投稿日時 - 2002-07-10 19:19:43

ANo.11

>自然は、自然法則の元に平等です。

(日常会話ならともかくとして、哲学的に述べるのを前提とすると)
これ、本当ですか?とまず聞かねばなりませんね。

 公平とか平等という言葉は、形容詞からの派生語ですから、感得する者
の観念によってのみ定義される言葉です。だから、あくまで人間が人間の
定める法に則って、それを平等だと定義したと想定しますと、その枠の
中で「価値」を云々言うのは、その前提となる定義そのものに解がある
と僕は思います。

 つまり、最優先項目である前提こそが価値なのですから、お問い合わせの
質問は正しくはこう書かれねばならないと思うのです。

 『自然は、自然法則の元に平等であるという事がその価値であると定義する。
だから自然の上位概念は定義そのものである価値なのである。』

 善とは、何らからも派生しない、その言葉のみで存在する概念の一つです。
派生語とは違います。

投稿日時 - 2002-07-08 13:51:29

お礼

eidosさん、ご回答有難うございます。
正直お礼の文が難しいですね。頭の中まで汗だくです。
価値で頭を痛めているのに、平等まで難しく考え出しては堪りません、私見ですが、哲学だからと言ってわざわざ難しくする必要は無いように感じます。
最初の一行は質問の本質からは有っても無くても良かったのですが、価値の区別や差異を強調する為とキャッチフレーズのような意味合いなのです。哲学ですから最初の一行を疑うことは当然ですが、平等と差異をテーマとしたのではなく、「価値」と「善」の関係、それ以上でもそれ以下でもない質問だったのですが。
意外な回答で参考になりました。

投稿日時 - 2002-07-09 18:39:47

ANo.10

価値と、真善美の関係は、自然の恵みである食物と、それに含まれる栄養素の関係に例えると理解しやすいと思います。

価値を認めるということは、そのものを受け入れていることで、食物を摂取することと同じ意味があります。

栄養のバランスが崩れると不健康になるように、受け入れる真善美のバランスが崩れると弊害が生じます。

投稿日時 - 2002-07-08 04:36:53

お礼

Amaterasuさん、ご回答有難うございます。
バランスの問題ですか、確かに価値にこだわりすぎてバランスを崩しているかもしれません。
ご回答を参考にして、価値については時間を置いて質問した方が良いかもしれません。今度は、ひまネタにもお付き合いください。
それにしても、異を唱える事の出来ない素晴らしいお名前で、ただひれ伏すのみでございます。

投稿日時 - 2002-07-09 18:32:33

ANo.9

> お手柔らかに(笑
ということは、続きが期待されている、ということでしょうか?
それとも、それはとんでもない誤解でしょうか?
No.3 と No.4 で回答した misoka です。

さて、「価値」が「美」の上位概念であるかという話題ですが、
たとえば人間の文化というものを考えた場合、歴史上のさまざまな
美の系譜は、人類が築いた価値体系の1つとして評価して構わない
でしょうから、そういう意味では、価値は上位概念だ、
と考えることができます。

にもかかわらず、美を体験している際には、私たちはまるで
観念論のイデアのように「美」を「思い出して」いるような
ところがあります。その審美判断は、既存の価値からは原則的に
独立しています。

このとき、人間の価値は美の上位概念でしょうか?

それとも、これ自体が詭弁でしょうか?


詭弁ついでで、ちょっと関係ない(かもしれない)話を。
題して「あらゆる価値あるものには、価値がない」。

つまり...

対象に価値があると判断することは、即ち、他の価値がないものを
判断しているということである。
つまり、価値があるものというのは、他の価値がないものに
よって成り立っている、ということになる。
ところで、価値がないものによって成り立っているものに、
果して価値があると言えるだろうか?
だから、あらゆる価値あるものには、価値がない。

類似した話としてもうひとつ。
題して「あらゆる美しいものは、美しくない」。

つまり...

(まったく同じパターンなので略)


有名な詭弁と比べると、あまりクールではないような気もしますが、
別に煙にまこうという積もりではありません。
意味としては、「そもそも価値とはこういうものではないか?」
ということを私なりに提示しよう、ということだったのですが、
しかし、私は、もともと抽象的な思考がニガテだったのです。
それに、文章も長くなってしまったし、時間も遅いので...

次回に続く(のか?)

投稿日時 - 2002-07-08 01:52:16

お礼

misokaさん、ご回答有難うございます。
とんでもないと言うか、好意的な誤解でしょう。
この質問は、前回4回目で私が挫折しましたが、今度も私が挫折するまで終わらないと言うことです。
また新しい質問をする予定ですので、その予告のようなものです。
詭弁は面白いところも有りますが、結局、手段と目的を混同して、目的にたどり着けなくなります、今は余裕が有がありませんので、また今度。

投稿日時 - 2002-07-08 19:51:31

ANo.8

●選択という意識の作用のなかで 価値という要素が判断材料になってはいまいか?
 そのように考えることは可能です。つまり第一章で述べている通り 価値とは
 それぞれの解釈によって成り立つということです。

 わたしが一番主張したいことは 価値という概念・言葉を他者との関係の処理
 以外に持ち出すことの弊害です。他者との関係の処理以外の場面に於いて
 価値という言葉は他の言葉に置き換えることが可能なのです。
 しかし他者との関係を処理する場合に価値という言葉以外の言葉は使用
 できません。この事実をなぜだとお考えでしょうか?
 例:きょうのオナニーは価値があった。
   きょうのオナニーは気持ち良かった。←このように置き換えれる。
   このトウモロコシは 100円の価値かなぁ・・・。
   ↑他者に売ろうとしたとき価値を他の言葉に置き換えれない。
 わたしは この事実に基づき主張しているわけなのです。
 わたしは映画を選ぶときも価値という概念は意識にでてきません。
 たとえば 癒されるような映画を観たいなぁとか いろんな選択基準です。
 わたしの意識には価値という概念は本当になかなかでてきません。
 さまざまな害を及ぼしている経済の最大要素である価値という概念を
 なぜ好き好んで他の事象に用いるのでしょうか?
 無神経としか言いようがありません。
 価値を用いなくて表現できる場合は もっと適切な表現があるのです。
 その「適切な表現がある」という事実に気付き 価値という概念の
 正体を明らかにしつつ見極めて向かい合うことこそ 未来を向いていると
 考えているのですけれども・・・。

投稿日時 - 2002-07-07 23:44:59

お礼

chihokoさん、ご回答有難うございます。
chihokoさんが私以上に価値にこだわっていることが良く判りました。
(他者との関係)個別でなく一般論とすれば、(社会・世の中)。(処理する)ここが理解しずらい所ですが、生きると言うことでしょうか、なかなか難解です。
社会で生きる人間が、価値を通して生きているなら、価値の事を知る必要があると思います。
>さまざまな害を及ぼしている経済の最大要素である価値という概念をなぜ好き好んで他の事象に用いるのでしょうか?
私は、「経世済民」を信じて価値の本質が知りたいのです。
私と、chihokoさんはそんなに違わないと思います、ただ、よく似ていると、かえって小さな違いを強調しすぎるように思ってしまうのは、私の無神経さでしょうか?

投稿日時 - 2002-07-08 19:31:46

ANo.7

>交換するから、価値が生まれるのか、価値があるから、交換するのか。
この問題は、もう少し後で取り上げたいところです。

●もうすこし後でって えっ! まだ続くんですか?(爆)
 もぉー 価値 価値 ばっかりで 無心でオナニーできなくなっちゃう・・・。
 
 どこで価値という概念が意識にかかわるか?
 例えば マッチ棒で五重塔を無心に作る趣味のひとがいたとします。
 趣味は普通はアソビのこだわりのひとつとして捉えるなら
 そこに価値という概念は微塵もありません。しかし 五重塔が欲しいという
 他者とのかかわりが生じたときに はじめて価値という概念が自然発生
 するわけです。おいしい食べ物をいただいたとき おいしい・からだにいい
 という形容で十分です。それに価値があるという言葉をあてはめることは
 価値という概念に浸かっている人間ですから するでしょう。
 しかし 自然の動物は価値という概念を持たずにあらゆる行為と選択を
 しているのです。それは価値という単純な目安ではなく 生きることそのものの
 と言っていいほどの自然の摂理という偉大なスケールで働く目安です。
 価値という概念の呪縛から 離脱できるかできないかは
 本人の意識次第なのです。辞書は過去を向いて書かれています。
 わたしは未来を向いて申し上げているわけです。ミームの奴隷を解放するために。
 価値とは他者との関係を処理するための概念であり 物事の本質には
 一切の関わりを持たない概念であることを・・・。
 さて 映画観に行ってきまーす!

投稿日時 - 2002-07-07 08:32:31

お礼

chihokoさん、行ってらっしゃい。
>価値とは(他者との関係を処理するための)概念であり 物事の本質には一切の関わりを持たない概念であることを・・・。
その通りです、( )の中は正確に理解できませんが。
自然の世界は、自然の法則にしたがって平等ですが、人間の世界は、価値法則(区別や差異)が貫いているのです。
人間も自然の動物ですが、動物と違って他人と交換しながら生きるしか術が無いのです。
chihokoさんが映画を見に行き、女性の心理を謳った「マジソン郡の橋」と男の友情を謳う「スタンドバイミイ」の二つの内どちらを選ぶか、この選択の意識の中に「価値」の比較があるはずでは。
うひゃ~今日は、6月37日、仕事しなきゃ。

投稿日時 - 2002-07-07 09:49:50

ANo.6

真・善・美 などは本来、対象の性質を形容する観念であり、その性質は対象に内在している。対象についての価値判断基準となる価値観は主体の側にあり、、自己の欲求や必要性などにより容易に変化する。
かくしてコップ一杯の水、一匹の猫、一幅の絵、そこにある山や川の価値は、本来の性質を離れ状況により様々な評価を受けうる。
このように考えると、価値は自己都合の要素が関わり、それだけに状況を加味した総合判断的な性質をもつので、善の上位概念ということは出来ると思います。

ここでは、概念の後先についての検証はしていません。
参考にして下さい

投稿日時 - 2002-07-07 02:24:22

お礼

mcqgogoさん、お忙しいところご回答有難うございます。
参考になりました。
質問の欠陥を指摘しつつ、簡潔に、価値の上位概念としての可能性を認めていただき心強く思います。
概念の後先の問題はどう処理するか、反省しながら考えてみます。

投稿日時 - 2002-07-07 06:38:55

ANo.5

●fishbowl66さんが 価値を考察する際 自然を引き合いに考えられた
 その発想はすばらしいひらめきだと思います。
 自然と人間の違いを考察してみて 感じるのは価値というよりも
 「こだわり」ではないだろうか と思うのです。
 自分の幼いころをふりかえってみると さまざまなものにこだわりを
 もっていることに気が付きます。お人形 ぬいぐるみ パジャマ ハンカチ
 お洋服 etc そのこだわりは対象に価値を見出しているのではなく
 なんとなくただこだわっているわけなんです。しかし そこで交換とか
 売却とか 他者とのかかわりがでてきたとき はじめて価値という概念が
 生まれるのではないでしょうか。ですからfishbowl66さんの仮説の
 「最初の尺度に「価値」と言う概念を持つ」というのは だいぶ現実とは
 違っていると わたしは思います。

 ただfishbowl66さんが価値にこだわってらっしゃる姿勢は高く評価いたします。
 (わたしは評議員ではありませんけど 笑)
 わたしは現代人は価値をめぐる経済というミームの奴隷になっていると
 考えております。リンカーンが奴隷を解放したように 
 わたしはミームの奴隷を解放したいのです。
 <ミームの奴隷 開放令>
 1:株式会社の廃止
   株は配当を得る権利であり 権利という無形のものの売買は
   実質を伴わない よってこれを廃止する。
 2:先物取引の廃止
   将来の予想価で取引を行うことは 賭け事であり
   賭け事に経済を巻き込むことは堅実ではない よってこれを廃止する。
 3:あらゆる権利の廃止
   自然界には権利は存在せず 権利を規範により肯定することは
   人為的な経済の偏りを生ずる よってこれを廃止する。
 4:宗教からの離脱のすすめ
   自然界には宗教は存在せず 宗教によってのみ救いを得ざるおえない者を除き
   人は本来は自らの力で生きるべき自然の一部であり
   宗教という限られた概念のなかでいきるべきではない
   よって宗教からの離脱をすすめる。
 5:国家からの離脱のすすめ
   人は限りなき自由を得る可能性を秘めており その萌芽がいま
   世界に芽生えつつある よって国家というワクにとらわれる事のない
   自由なイデオロギーの選択を可能とする新しい世界の数々のユニティへの
   参加のため 既存の国家からの離脱をすすめる。
   

投稿日時 - 2002-07-06 23:13:57

お礼

chihokoさん、ご回答有難うございます。
認識の最初に「価値」の尺度を持ち出したのは誤りだったようです。ただ、対象の認識から、行為に移る過程のどこかに「価値」の尺度があることは捨てきれないところです。
私の場合は、こだわりそのものも、主観的価値の一部のような気がします。
交換するから、価値が生まれるのか、価値があるから、交換するのか。この問題は、もう少し後で取り上げたいところです。
奴隷の開放令は面白い発想ですね、私の価値へのこだわりは、この裏側にあるのかもしれません。
物質とエネルギーの保存則に逆らって、「価値」はどこまで増殖するのでしょう。
↑冗談です、真に受けないで下さい。

投稿日時 - 2002-07-07 06:35:18

ANo.4

No.3で回答した misoka です。
勘違い的に物分りが悪いかもしれませんが、
気が向いたら議論に付き合ってください。

> 音を音楽として認識し、それを美しいと感じる主観は
> どこに由来するものでしょうか。

音楽を楽しんでいるときに、「それが音楽である」という認識は必須では
ありませんし、そういう認識は、却って「不純」かもしれません。
(別に不純ってことはないんですが...)

議論を分かりにくくしているのは、「価値」という言葉の「守備範囲」が
不明確であるためかもしれません。
わたしは、至極俗な「価値」について書きました。
それは、お題の通り「差異が価値である」と認識したからです。
ところが、美には、認識的な差異なんて必須ではないと思っている
わけです。

音楽の美は、別にその表現形態が「音楽」と呼ばれるものであるか否かに
依存しているわけではありません。
(いわゆる「騒音」でも構いませんし、音がなくても問題ではありません)
しかし、音楽に価値があるか否かは、音楽を特別視するかどうかに
依存します。

また、審美的な判断は、笑いのようなものかもしれません。
別に洗練された人だけのものではないと思っているわけです。

たとえば私たちは、くすぐられると笑いますが、それは(もちろん)
別に笑いに価値を認めていたせいではありません。
それは、かなり謎な、ヒトに特有の自然現象です。

同様に、たとえば、嬉しくて心が弾むときに、悲しい音楽を聴いて、
悲しさに沈む美しさに陥ってしまうことがあります。
しかし、それはそのとき「悲しい美しさに価値がある」という
主観があったからだと言えるでしょうか?
認識があってもなくても、心は、悲しい美しさを判断してしまう
ものだと思います。

では改めて。

街頭で音楽を耳にして、ふと足を止めたのは何故でしょう?

常に足を止めるとは限らないのに?

投稿日時 - 2002-07-06 21:00:59

お礼

misokaさん、ご回答有難うございます。
足を止めるのは、音が美しく、その快感の感情を持続させたい要求でしょうね、確かに価値の概念はまだ現れてはいません。これはやられましたね、安易なお礼文で墓穴を掘ってしまったようで。
ただ、負けっぱなしと言うわけにも行きませんので、弁解を一つ。
上位概念とは、後先の問題ではなく、包括的な概念かどうかと言うことだと思います。(見苦しいかも)
それと、確かに対象に対して最初に感情が発生しますが、「価値」の概念としての区別や差異がどこで現れるかも、もう少し考える必要がありそうです。
兵法に敵の逃げ道を塞ぐなと言います。「窮鼠、猫を噛む」と言う諺もありますから、お手柔らかに(笑

投稿日時 - 2002-07-07 06:32:07

ANo.3

たとえば、街頭でパフォーマンスをしているミュージシャンが、
とても美しい音楽を演奏していて、みんな、足を止めて聞きほれて
いたとします。
でも、そこにいた人たちが、みんな、そのミュージシャンのことを
「価値がある」と思うでしょうか?
また、彼(女)の演奏した音楽のことを?
音楽は美しかったはずなのに?

というようなことは、よくあることじゃないかと思います。
一般的には、美しいだけでは必ずしも価値にはならないです。
美しいだけで価値になり得るには、美そのものに対する特別な
価値観が前提になると思います。それがない場合は、(たとえば)
ステージに立って聴衆を集められる演奏家などに価値がある
ということになりがちです。つまり、美そのものよりも、
ステージに立てること、聴衆を集められること、といった「力」に
価値が認められやすい、ということです(たぶん)。

「価値」は「価値観」に基づいて決定され、
「美」は「審美的な判断(?)」によって決められていて、
両者の判断基準は、たぶん、異なる次元にあるような気がします。
美をとても大切に考えている人だけが、両者の基準をほぼ
同じものとして持つことになるんだろうと思います。

だから、価値が必ずしも上位概念とは言えないような気がする
わけですが、どうでしょうか?

投稿日時 - 2002-07-06 12:37:08

お礼

misokaさん、ご回答有難うございます。
見事に質問を無視して頂いて感謝に耐えません(笑。
「善」より「美」のほうが解り易いのかもしれません。
最初に、音を聞いたときに、立ち止まるのはなぜでしょう。音を音楽として認識し、それを美しいと感じる主観はどこに由来するものでしょうか。美しい音楽を作り出す人に「価値」を見出すのは、その後の度重なる思考作用の結果ではないかと考えてしまうのです。
価値の不思議なところは、内容の違うものを見事に統一してしまうマジックのような謎に満ちたもののような気がします。
認識の問題は、フッサールやメロン・ポンチ(名前が思い出せない)が出て来ると、難解になるので避けたい所なのですが。

投稿日時 - 2002-07-06 17:57:16

ANo.2

とりあえずのステップ1ということで

人の子は2歳ぐらいまでは、他の動物と人の差異を認識していないのではないか、という話を聞いたことがあります。自分なりに観察してみると確かに同じ生き物としてふるまっているいるように思われます。
その説に従って初期の感覚を考えますと、動物にとっては快不快というものが、外界に対してまず起きてくる差異の認識ではないかと思います。そこから考えてみようかなどと今、モアッとした意識の中で思い始めています。

投稿日時 - 2002-07-06 12:02:22

お礼

mcqgogoさん、ご回答有難うございます。
自然の法則から、不本意な連想に誘導してしまいました。
現実又は事実を認識する、理性的な主観が、現実又は事実を自然の法則として捉えるのではなく、主観的な価値法則によって捉えているのではないかという問題です。間に合うでしょうか、誤解を与えてすいません。

投稿日時 - 2002-07-06 17:50:45

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