こんにちはゲストさん。会員登録(無料)して質問・回答してみよう!

解決済みの質問

豊臣秀吉は何故朝鮮侵略をしたか?

豊臣秀吉は何故朝鮮侵略をしたのでしょうか。私は横山光輝作の歴史コミックの知識しかないのですが、日本統一で部下に与える禄高がなくなったからだという説明とか色々あるのでしょうが、日本の次は明国とか膨張主義を考えていたのでしょうか。日本に平和をと考えていたのであれば、おかしいし、年を取って耄碌したのでしょうか。それにしても、良く皆豊臣秀吉の命令に従って、朝鮮侵略をしたものですね。

投稿日時 - 2006-01-28 17:03:20

QNo.1927178

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

信長とともに本能寺の変で倒れた森欄丸で有名な「森家」の逸話として次のような一文があります。

天正15年、天下は信長の後を継いだ豊臣秀吉の手に渡った。ところが秀吉は強引に無謀な海外出兵を始める。秀吉の夢は大陸の明王朝を征服することであり、その通り道となる朝鮮国に対して邪魔をしないように求め、さらに李王室に対して朝貢(貢物を朝廷に持ってくること)を要求した。しかし、武よりも文が進んだ朝鮮国は、この求めには応じず見下した態度を日本側に見せる。

激怒した秀吉と朝鮮国との間を取り持とうと、朝鮮から援助を受けてきた対馬の宗一族と小西行長の願いも空しく、無情にも戦争は始まってしまう、こうして日本最初の海外遠征である朝鮮出兵が開始された。

秀吉は諸大名に対して「1万石に付き兵を何人出兵すべし」といった軍役を発表し、忠政の場合はおよそ1800名が割り当ての兵力であったが、忠政は2000人を超える軍勢を差し向けた。 諸国から集結した「日本軍」は総数45万人となり、「唐入り」した日本軍は一番隊から九番隊まで総勢15万8800人。

朝鮮半島を目前とした場所に巨大な城を建造することになった。肥前名護屋城である。後年の津山城に代表されるように、もともと築城を得意としていた忠政はこの普請奉行を勤めることになり、これらの兵力はすべて築城に携わることになった。また、城が完成するまでの間、秀吉らが滞在する本陣なども手配している。

おかげで忠政は兵を失うことなく、本国に帰還することができた。しかし、森家の中でも渡海して朝鮮で奮闘した一族もいた。忠政の叔父、可政である。

当時森一門ではあるが、長可と不和になって関係を絶っていたため、忠政とは別の行動をとっていたのである。後に徳川家康直参の旗本となった可政は、忠政の嘆願により、森家の執権として津山城に迎えられている。

投稿日時 - 2006-01-28 21:59:27

お礼

大変有難うございます。やっぱり、秀吉は耄碌したんでしょうね。また、金持ちになって傲慢になって、目が眩んだんでしょうね。

投稿日時 - 2006-01-30 12:49:47

このQ&Aは役に立ちましたか?

23人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

-広告-
-広告-

回答(6)

ANo.6

なんか質問者の中で回答がでてるのでしょうから
意味があるかはわかりませんが・・・

歴史コミックの知識だけで物事を判断するのはかなり間違ってると思いますよ

それに朝鮮出兵は、そんなに決定的には負けてませんよ
どちらかと言うと五分ぐらいでは?
徹底したのは秀吉の死亡のためで、それがなかったたら
まだまだやっていたと思います
(それが日本のために良かったかは別問題です、どうせ最終的には撤退でしょうし・・)

投稿日時 - 2006-01-30 17:06:43

1.成熟した世界最高レベルの陸軍兵力の温存と有効活用
2.国内内乱予防の為の治安安定を目的とした政治的意図
3.100年間安定拡大した日本の軍事型生産経済の維持と言う経済的意図
4.有力な仮定論では在るが、大坂城築城、全国統一、明遠征は信長のプランとして確定していた。
5.国内有力武将の慰撫・融和政略としての雇用確保
と言うような複数のレベルと目的が複合した結果であったと言われています。一部言われているような秀吉の誇大妄想と言う解釈は、日本人にとってネガティブな外征を秀吉一人の狂気として隔離排除する物であり、当時の日本社会の方向性に対する正確な認識とは言い難い事です。
他の方の解答にも在りますが、当時の国際情勢や世界史のパターンを考慮しても、秀吉や日本人の異常性を表現してはいません。

文禄・慶長の役は基本として疲弊した大国明の遠征攻略が目的であり、朝鮮半島は攻略ルートの一部分であったに過ぎません。
結果として日本軍が長期・長距離兵種運営上の諸問題を解決できなかった事と、戦略・作戦レベルでの過ちがあった為外征に失敗したというだけのことです。

日本人の心情的解釈として「外征」を極端に嫌悪する傾向が戦後に形成され、文禄・慶長の役に対して感情的な解釈が目立ちます。国内戦の日本統一の過程は肯定的に捕らえ外征を嫌悪する傾向に在りますが、どちらも織豊期戦国時代の一過程にしか過ぎません。

投稿日時 - 2006-01-29 18:17:33

お礼

有難うございます。しかし、そんなに良く考えて朝鮮征伐がやられていたら、あんなみじめな結果にはならなかったと思うのですが。

投稿日時 - 2006-01-30 12:54:35

ANo.3

真意は本人に聞かなければわかりませんが、ひとつの考え方としては、その頃の日本は東アジアでも随一の軍事大国であり熟練した将兵が多数いました。
しかし、日本国内は統一されて戦争する機会はなくなり(天下統一したのに戦闘が起きては困る)、一部の幹部はともかく多くの雑兵たちは仕事を失うことになり、また戦場で得られたような収穫もなくなって不平をもって治安を乱す要因にもなりかねないために、その矛先を海外へむけたということです。
なお、この海外進出案は秀吉が考えたことではなく、もともとは信長が考えていたことだったが、信長が横死したためにその構想を秀吉が受け継いだのだと言う説もあります。

投稿日時 - 2006-01-28 17:39:19

お礼

有難うございます。しかし、横山光輝の歴史コミックによりますと、朝鮮の亀甲船にバカスカやられたということではないですか、そして、日本の武士は食糧補給がうまく行かなくて、泥水すすって戦ったそうではないですか、少し勝って得た領土というのもなさそうですし、とても「その頃の日本は東アジアでも随一の軍事大国であり」とは思えないのですが。

投稿日時 - 2006-01-30 12:47:46

ANo.2

> 日本に平和をと考えていたのであれば、おかしいし、

 別におかしくありませんよ。外征というものは国内が平和で安定していないとできないのですから。

 ともあれ、あなたの問いは、世界史を見れば当たり前の帰結なのです。
 アレキサンドロス大王も、チンギス・ハーンも、ナポレオンも、国内を統一したら次にすることは必ず外征です。秀吉も一緒。
 なぜかと言うと、英雄によって国内統一がなされた状態とは、軍事的に勝利した状態だからです。つまり、巨大な軍隊が戦う相手も無い状態で残っている状態です。で、軍隊とは存在するだけで金を食う代物で、戦争をしないなら縮小しなければなりません。しかし、その軍隊に向かって「はい、君らもういらないから解散ね」どころか、軍縮などしようものなら、いかな英雄でも大概手に武器を持った軍人たちに細切れにされるでしょう。その意味で、徳川家康は、世界史の中でもとんでもない例外なのです。

 家康ほどの例外ではなかった秀吉は、「仕事の無くなった巨大な軍隊」への失業対策として、正攻法に出たということです。つまり、戦う相手を外に求めました。
 なお、明を征服しようという構想は持っていましたが、こういうものを、別に膨張主義とは言いません。この構想、別に耄碌したゆえではなくて、実現性が無かったわけではありません。当時の日本は世界一の銃保有国でしたし、実戦経験も積んでいて、数の上でも世界最大の陸軍国でした。それゆえに、イスパニアも日本への侵略ができなかったほどですし。
 結果論として、長征時に生じる問題に柔軟に対応できなかったという点でほころびて失敗したわけですが、この辺は「耄碌」によるものだったかもしれません。若き日の柔軟な発想力を持っていた秀吉であれば、兵站の問題くらい解決した可能性は、大いにありました。

 ちなみに、当時は「朝鮮侵略」ではなくて、「唐入り」と呼んでいました。目指す敵は明であって、朝鮮は通過するだけだから道案内を要求したのです。

投稿日時 - 2006-01-28 17:36:29

お礼

有難うございます。日本に平和をというのが、日本武力統一の正当理由であり目的だったと思うのです。「外征というものは国内が平和で安定していないとできない」と言われますのは、事情だと思うのです。外征の原因というのは、色々と言うことは出来ると思うのですが、外征の正当化、外征の目的というのが何だったのだろうと思うのです。それが、きちんと出来てないから、ちょっとやって駄目でああー、駄目だったとなったのではないかと思うのです。

投稿日時 - 2006-01-30 12:43:49

ANo.1

 明との間で外交問題が起こり、それを解決するために明に向けて出兵しただけのことです。その通り道に朝鮮があっただけのことです。

投稿日時 - 2006-01-28 17:28:55

お礼

有難うございます。明との間の外交問題というのは、何でしょうか。

投稿日時 - 2006-01-30 12:36:08

-広告-
-広告-

あなたにオススメの質問

-広告-
-広告-