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解決済みの質問

江戸時代の公家の女性

江戸時代の公家というのはあまりドラマなどでも題材に取り上げられないのですが、特に女性はどのような姿をしていたかが気になります。
以前テレビドラマ「大奥」では、和宮や和宮の侍女たちは平安時代のままの十二単のような服装でしたが、結髪が普通になった時代でも公家の女性は垂髪だったのでしょうか。
また、小袖は公家の女性には着られなかったのでしょうか。そして袴ははいていたのでしょうか。
ちなみに↓のようなサイトも見つけました。
http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/kosode/21.htm
若い公家の女性の服装は、大名の姫君とあまり変わらなかったのでしょうかね?

投稿日時 - 2005-08-05 12:20:07

QNo.1561029

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

お礼をありがとうございます。

> 時代劇などで農民の女性が結髪しているのは間違いなんですね。
うーん。
「間違い」と言われてしまうと悩んでしまうのですが…。
自分が書いた回答を後から読み直して、「『農民』とひとくちに言っても、名字帯刀を許された大名主や庄屋みたいな農民もいれば、水呑百姓のような農民もいるなぁ。」と考えました。
裕福な、農民といっても小作人に農作業をさせて、自ら農作業をしない(現代の)経営者のような農民の奥方ならば、髪を結う余裕もあっただろうし、その日の食べ物にも困るような百姓ならば、髪を結うような余裕は、時間的にもなかったのではないかな-と。

いろいろ調べているうちに、
> 農民等は「束髪」が「普通」
とも言い切れないのかなぁ、と感じました。
私は、「労働の邪魔になる髪を1まとめにして束ねる」ことの意味で「束髪」と書きましたが、それを「結髪」と説明してある文献やサイトもあったものですから。
maddy-kz23さんがおっしゃっている「結髪」が、特に『江戸時代の中期から後期に一種の芸術の域にまで達した結髪』のことではなくて、『働く時に邪魔な髪の毛を束ねておくという自然な形での結髪(この中には束髪も含まれる)』のことを言われているのでしたら、確かに「結髪が普通」ということになりますが、これは江戸時代に始まったことではないし…。

調べれば調べるほど、資料の少なさに驚かされます。
江戸時代って、現代から近いので衣装等は現存していても、写真がない時代ですから「どんな格好をしていたか。」は見ることができないんですよね。
「絵」などは、特定の地域の特定の階層の人間しか描かれていませんし。

> 公家の女性はやはり江戸時代を通じて下げ髪だったんでしょうか。
> つぶいち頭などは特別な例だったのでしょうかね。

こちらも、普段は下げ髪にしていて、行事ごとの時に「つぶいち(葵髱島田)」に結った-という可能性もありますし…。
京でも町方ですと、若い女性は島田髷を結っていたようですしね。
私自身、次から次へと疑問が沸いてきてしまいました(今度まとめて質問を出してみようかしら)。

いろいろ調べている間に、またまた、こんなサイトも見つけましたので、ご参考までに。
http://kouseimir.s97.xrea.com/yokocho/mc358/mc358.html
http://hana.merseine.nu/j/kamigata/kami_frame.htm
http://www.geocities.co.jp/Playtown/6757/edokesyou03.html
http://www.geocities.co.jp/Playtown/6757/nendaikesyou.html

投稿日時 - 2005-08-19 16:44:33

お礼

何だかすいませんねえ…。
好き勝手に質問ばかりしてしまって。
サイト教えていただきありがとうございます。
確かに庄屋のおかみさんと貧しいお百姓さんでは
髪型も違っていたでしょうね。
写真がないのでわからない部分が多いですよね。
教えていただいたサイトの中には、御所風の結髪も
あったようでちょっと驚きでした。
女官こそ垂髪のイメージが強いので。
思うに、時代劇のように同じような髪型ばかりではなかったのでしょうね。

投稿日時 - 2005-08-22 15:27:03

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回答(4)

ANo.4

そうですね、公家の女性達と武家の女性達は
江戸時代においてはほとんど服装に変わりがなくなって
いきます。
これは、鎌倉時代・室町時代あたりから武家の
「小袖」文化が宮中に
入り込んで来た頃に端を発し
将軍・徳川秀忠の娘、東福門院和子が帝の后に
なったことでピークとなります。

公家と武家との間での結婚が盛んになることで
両方の文化(特に力のある武家方の文化が優位だったでしょうが)
が交流し始めるんですね。

それで宮中や公家社会では武家の小袖・打掛(公家方では「掻取」といいます)を
取り入れて、宮中では略礼装や日常着に用い、一般公家社会でも大体同様だったんでは
ないでしょうか? 掻取の様式(使う地紋様や色、模様の付け方や染模様のみか刺繍を入れるか)を変
えることで、
TPOを多少付けたようですが、武家方と違ってあくまで「略式」のものだったのでルールはおおざっぱ
だったようです。 

逆に武家の方は小袖や打掛のTPOや身分によるルールは細かく定まっていたようです。
そして、逆に公家風の伝統的装束の様式は将軍や大名の正室(公家や皇族出身が多い)の正装に採用さ
れ、
それが武家方の「権威付け」にも役だったようです。

掻取は、小袖の上に着流しで着ていましたが、宮中、特に皇族方には
小袖・掻取の上から伝統的な「長袴」を着る、なんてことも行われていたようです。(「着込み」)
帝側近の女官達は普段は「白小袖」に肩に紐を引っかけて着る長袴です。

そして、ちゃんとした儀式の時には「小袿に袴」とか「十二単」のような「伝統的装束」を着ました。

一方で一般の公家女性達がこうした伝統的な「公家装束」を着ることはたぶんほとんど
なかったと思います。あるとしたら、婚礼衣装くらいでしょうか・・?

和宮が家茂のもとに嫁入りしたとき、十二単を着ていて、家茂が束帯姿だったのは
たしかのようです。これは記録に残っています。
その後も和宮は「御所風」を通したそうですが、これがいわゆる「装束姿」だったのか
御所風の「掻取」に小袖、袴 という姿だったのかはどうやらわかっていないようです。


江戸時代の半ばくらいまでは少なくとも宮中の女性は垂髪でした。
垂らした髪に長いかもじをくっつけ、十二単を着る、というのが正装でした。(普段は白小袖に長袴)

ただし、帝の前を下がった後には小袖に結髪(垂髪をぐるぐる巻いたような素朴なもの)に
していたようです。江戸時代の後半くらいから、庶民の影響を受けてか??
日本髪のように横髪を張り出した、あの(お雛様で有名な)「大すべらかし」を
結い、これのバリエーションのような感じで「公家風の日本髪」もいろいろ出てきました。
「つぶいち島田」は公家の姫や宮中の若い女官見習いが結っていたそうです。
この頃にはおそらく公家階級でも頭を垂髪にすることはなかったのではないでしょうか。

長文失礼いたしました。


最後に参考になりそうな資料置かせて頂きますね・・・

ネットで
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000126
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000125
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=133
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000132
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000112
つぶいち
http://pupa.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-983d.html
http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000162
http://kimagurecp.kitunebi.com/komagaisameba/kushimatsuri1/aoidutotubumage.gif
小袖について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A2%96#.E5.B0.8F.E8.A2.96.E3.81.AE.E8.BA.AB.E5.88.8
6.E5.B7.AE
公家小袖について
http://www.tuad.ac.jp/adm/arthistory/newpage_20080627_185450/

ビジュアル中心

日本の髪型―伝統の美 櫛まつり作品集 (文庫)
京都美容文化クラブ (編)
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%AB%AA%E5%9E%...​

日本の女性風俗史 (紫紅社文庫) (文庫)
切畑 健 (著)  ←江戸時代の公家女性の雰囲気がわかります
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%80%...​

黒髪の文化史 (単行本)  ← 公家・御所風の髪型に詳しいです、おすすめです!
大原 梨恵子 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E9%BB%92%E9%AB%AA%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%...​

花洛(みやこ)のモード―きものの時代 (大型本)
京都国立博物館 (編集)  ←「公家好み」の小袖が出てきますよ^^
http://www.amazon.co.jp/%E8%8A%B1%E6%B4%9B-%E3%81%BF%E3%82%84%E3%81...​

文章中心

服装の歴史 (中公文庫) (文庫)
高田 倭男 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%8D%E8%A3%85%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%...​

日本女性服飾史 (大型本)
井筒 雅風
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A5%B3%E6%80%A7%E6%9C%...​

投稿日時 - 2010-02-05 18:00:52

ANo.2

うーん。懐かしい。
服飾史は、短大のゼミ担当教授の専門でした。(なので、一応「経験者」ということで。)

私は、TVドラマ「大奥」は、名前だけ歴史上の人物の名前を使っている「時代小説系のドラマ」だと思って見ていましたから…。(要するに時代考証がお粗末な、フィクション性の強い「ドラマ」と思っていたんです。)

いわゆる「十二単」は女房装束で、身分が下の者が上の人の御前に侍る時の「仕事着」の一種です。
ですから、和宮の侍女たちが十二単を着用する可能性はあっても、その主人である和宮が十二単を着用する可能性はありえません。
「源氏物語」でも六条院の女楽(若菜下)で「小袿着て羅の裳のはかなげなる引きかけてことさら卑下したれどけはひ思ひなしも心にくくあなづらはしからず」と、1人出自の劣る冬の御方(明石の上)が、他の女君に遠慮して「裳」を着用していたとあります。

宮廷、公卿の夫人の服装には晴の装束と褻(け)の装束があり、質問文中にあるページ(「風俗博物館」ですね)で紹介されているとおり、「公家の姫君が自家の儀礼に出る時の晴れ姿」ですから、儀式や特別な行事の際に着用した「晴の装束」です。
対して、褻(け)の装束というのは普段着です。

> 若い公家の女性の服装は、大名の姫君とあまり変わらなかったのでしょうかね?
江戸時代の公家は大変貧乏だったので(皇室の御料ですら3万石程度と小大名クラス)、生活のために内職をせざるを得なかったくらいですから…。
宮中女官の装束が「白小袖に緋袴」となったくらいですし、ましてや宮廷に出仕するわけでもない、内つ方である夫人や姫君が、大名の姫君のような豪華な衣装を着ることはできなかったと思います。
箔や縫取や刺繍にお金をかけるどころか、染すら充分にはできなかったのではないでしょうか。

ご存知かもしれませんが、こちらのサイトも、結構参考になりますのでご紹介させていただきます。
http://www.kariginu.jp/kikata/index.htm

> 結髪が普通になった時代

とありますが、何を以って「普通」とおっしゃっているのか理解しかねます。
結髪は、「江戸」という町では「普通」であったかもしれませんし、どちらかというと武家や町方での流行のような気がします。
同じ江戸時代であっても、農民等は「束髪」が「普通」でしょうし、公家社会では、下げ髪、垂髪が「普通」であったと思われます。
こちらのサイトなどは参考になるでしょうか?
http://www.geocities.jp/konta3737/hair3.html

尤も、大垂髪(おすべらかし)といわれる垂髪についても、「民族衣装文化普及協会」のサイトに、以下のとおり説明がされていました。

『垂髪は古代から現代までの基本の髪型であるが、大垂髪は、平安時代に始まり、室町時代、江戸時代へと三段階、三様の変化を遂げながら、現代に至っている。平安時代の垂髪は裾を引くほどに長いのが理想とされ、黒く艶があり、豊かなことが要求された。成人すると「鬢批ぎ(びんそぎ)」の儀式があり、頬にかかる一部の髪を目より30センチほど下で短く切る習慣があった。
室町時代は額を四角く出し、髢(かもじ)を繁いで、背中でいくつも結び目を作って垂らした。江戸時代になると、結髪式に鬢を張らせるので、後から見た形が杓子に似ている。この杓子の最も大きいのを「お大(おだい)」と称し、仙花紙を幾枚も張り重ねて堅くし、黒く塗って作った「つとうら」を用いて形を作る。次に二メートルに近い丸髢を髪上げの道具につないで、前髪の位置から後に垂らす。前髪は上げずに、垂らした髪は元結で四か所結ぶ。上から首の後の辺りで絵元結を結び切りに、二番目は少し下がった所に紅の水引きを片鉤(かぎ)に結び、三番目、四番目は共に「こびんさき」と言って、縦四つ織りにした白い紙を、いずれも片鉤に結ぶ。』

短大時代を懐かしみながら、回答をさせていただきました。
ご参考になれば幸いです。

投稿日時 - 2005-08-17 13:44:05

お礼

詳しい回答ありがとうございます。
雅なお公家さんも、あまり豪奢な衣装は着れなかったんですね。
石高など見ると、天璋院の実家の今和泉家ですら、公家筆頭の近衛家よりも多くの石高をもっているぐらいですからね。
>同じ江戸時代であっても、農民等は「束髪」が「普通」でしょうし、公家社会では、下げ髪、垂髪が「普通」であったと思われます。
なるほど。じゃあ時代劇などで農民の女性が結髪しているのは間違いなんですね。
公家の女性はやはり江戸時代を通じて下げ髪だったんでしょうか。
つぶいち頭などは特別な例だったのでしょうかね。

投稿日時 - 2005-08-18 15:43:39

ANo.1

後宮勤めの女性と、奥方や姫君などとでは多少違うところもあったようですが、基本的には日常の服装は武家の女性とそれほど違ってはいなかったようです。
これは男性でも一緒で、朝廷へ出仕したときこそ古来からの奥ゆかしい衣装を身につけていましたが、日常の生活での服装は武士といっしょだったようです。

投稿日時 - 2005-08-05 12:26:43

お礼

お礼遅れて申し訳ありません。
回答ありがとうございました。
なるほど、やはりあまり違いはなかったんですね。

投稿日時 - 2005-08-18 15:35:12

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