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解決済みの質問

大学教授は先生?研究者?

テレビを見てたら、吉村という教授が大学教授は、「教授は先生ではなく、研究者でなければならない。研究した成果を学生に還元するのが仕事だ。でも、いまの教授は先生になっている人が多い」と言っていました。

確かに研究成果がなく、研究していないっぽい先生も多そうですね。そういう人に向けた発言かも知れませんが、どうも腑に落ちませんでした。

でも、私も教授の授業を受けてきましたが、対価に見合った授業を提供してくれる学校、教授は少なく思います。
たとえば、自分の書いた教科書を毎年棒読みしているだけの先生もいました。こんな先生を見ると研究していればいい、という考えも危険ですね。

教授が二束のわらじをはいて研究もし、ちゃんと生徒を育ててくれればいいのですが、そんな大変なことをやってくれる人はごくまれだと思います。

抽象的ですが、理想的な教授の姿とはどういうものでしょうか?ちなみに私は学士卒で、特に教授になろうとか考えてはおりません。

投稿日時 - 2005-03-21 05:51:26

QNo.1281678

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

No.10で補足意見を求めたbascavilです。
非常に明瞭にお書きいただいたので、お考えがよく分かりました。ありがとうございます。

ある意味で、大学内でも教育と研究で担当者が二極分化するのと同時に、大学自体も二極分化するかもしれませんね。とくに後者は、大学のレベルであるていど分かれるかもしれない。いわゆる1流大学なら、これまでどおりでもやっていけそうですが、2流以下なら、もう完全に無理なんだと思います。

ただ、「金払っているんだから」という議論の立て方は危険だと思います。「じゃあ、来るな」という話になってお互いに辛いことになるので。そうではなく、やっぱり教育観の常識の問題なんでしょうね。
これまでは、日本の大学は、基本的にたくさんのクズから、優秀な人間を析出するというやり方だったんですね。で、その代わり、クズにも全員卒業証書と学士を与えることで、授業料への対価としていたんです。いわゆる「卒業は簡単」ということの沿革です。つまり、授業料というのは、「お札代」だったんですな。これも無意味じゃなくて、4年間とにかく講義を受けて、まがりなりにも試験を乗り切って、サークル活動することにも意味があって、4年間大学でブラブラしてた人からも面白い人材が出てましたからね。

で、これが大きく変わって、学部の4年間は高校生以下の生徒を教えるようにかわるので、大学も自己教育の場から、学校教育の場に変わっていくんでしょうね。少し残念なのは、そうなると、あの4年間ブラブラ遊んでいた人たちの「文化」が大学から消えることでしょうか。好き勝手に自分なりのやり方で学問に接し、遊んで暮らして学士をもらうスタンスから、お勉強になるわけですから、学生文化というのも、高校生クラスに落ちるわけで、そこだけが少し寂しいです。

投稿日時 - 2005-03-22 11:38:57

お礼

再回答ありがとうございました。
まったく同感でした。

私も大学教育には期待せずブラブラしつつ、自分なりの勉強をして4年間過ごし、その勉強の成果が社会に出て評価されています。もし、私が大学の無機質な勉強に取り組んでいれば現在リストラ予備軍だったでしょう。

ただ、願うのは私が自ら行動して得ていたことを年間100万払う大学が提供できなかったか?ということです。

英文科なのですが、英会話の授業は生徒数が40名というあり得ない状況でした。英会話の授業は3名が限度というところです。

ブラブラする時間も必要かと思いますが、教授・授業の質を高める努力を学校側がもっとすべきだと思います。

大学が現状の教育のままだったら、私は“大学=高校”という方が大賛成です。

投稿日時 - 2005-03-23 05:50:38

ANo.12

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回答(13)

ANo.13

大学教授の仕事は教育と研究の両方ですが、その比重は様々です。大学自体が教育と研究の両方をすることになっているのですから、教授も当然その両方を行います。

ただ両者への配分は、大学のレベルによっても違いますし、教授のレベルや考え方によっても違います。差が激しいので一般論は無理かと思います。

一流大学は社会から研究機関としての役割を期待されていますのでそこにいる教授や学生も研究者としての役割に重点を置くことになります。三流大学には研究活動を期待できないので教育を中心に求めることになります。
ただ、日本は米国と違ってこのことを公には言いません。最近はCEOプログラムの導入などである程度、差別化を打ち出してはいますが。(CEOプログラムに一つも採択されていない大学には研究は期待しないというところでしょうか)

また、教育活動というと講義ばかり連想してしまうかもしれませんが、大学院生の研究指導も大事な教育活動です。吉村教授の在籍するような一流大学では、特に理科系になると教授が担当する学生の数は研究室に所属する学生(学部4年生以上)が研究室に所属しない学生(学部3年生以下)に匹敵します。そうすると教授の教育活動とは、講義と同じ比重で研究室の学生の研究指導をすることになります。学生の研究指導は同時に自分の研究活動にもなりますので、それで立派に二足のわらじを履いていることになります。
また売れっ子教授になると講義は大学院の講義を2年間に半年1コマだけということもあります。要するに「講義よりも研究や対外活動に専念せよ」ということです。私大は結構はっきりしてます。これもどうかとは思いますが、私大のようにとにかく学生を集めないといけないところは、やむを得ないのかもしれません。

一方、ある私大の教授にカリキュラムを見せてもらったときに、WINDOWSの使い方、メールの送信方法などという講義があるのを知って愕然としたことがあります。その教授はこの大学では研究活動なんてあきらめなければいけないと言ってました。確かに無理だと思います。そこでは教授は教育活動の比重がとても大きくなるでしょうし社会もそれを期待していると思います。

教科書棒読みについては確かに工夫が必要かもしれません。一方で、基礎的な部分(理科系だと線形代数や解析学など)では、ひたすら道具としての数学を詰め込むしかないわけで、どう工夫したって限度があるでしょう。また、学生が自分で勉強してマスターすることも出来るわけです。

投稿日時 - 2005-03-22 13:19:34

お礼

回答ありがとうございました。アメリカの大学の様子がとても参考になりました。質の低い大学には研究成果を期待しない、なんてちょっと同感でした。

>ある私大の教授にカリキュラムを見せてもらったときに、WINDOWSの使い方、メールの送信方法などという講義

私はブラインドタッチを練習させられたほか、
大学生になったとき英文科なのに中学生のような学習をさせられたのを記憶しています。自分がそういうものを学ぶ人と一緒にいる、レベルの低い大学だったのでしょうか?

>ひたすら道具としての数学を詰め込むしかないわけで、どう工夫したって限度がある

実は私は「教えること」が専門の仕事をしています。生徒もおります。どんなことを教えるにしても、工夫はできます。ただ、そういう工夫をするには四六時中どうやって教えるかを考えなければならないわけで、研究する時間なんて取れなくなるでしょう。
二足のわらじは人間はけるものではないので、やはりチューター制度に期待したいと思います。

みなさまへ
いつか大学教育に携わる機会があるので、そのときは今回の質問で受けた回答を参考にさせて頂きます。

投稿日時 - 2005-03-23 05:42:50

ANo.11

>一足のわらじも意味がない、ならば両者を用意すればよいわけですね。

今日本の文部科学省とか一部の大学がやって
いるのは、高等研究と高等教育を大学院に
持って行くことです。1980年代に具体的に動き
出した下に学部を持たない大学院大学の設置と
いうあたりがその動きの1つです。

 すでに20~30年くらい前から、
殆どの大学はさらに前の高校程度に
落ちているので、その既成事実を
大学、大学院改革の形で組織の再編と
して実行しようということです。

 つまり、大学は教育機関に徹しろと
いうことです。研究成果挙げてる
教授はそのまま大学院で研究に
集中しなさいということなんです。
 
 すでに博士号を持った先生が殆どいない
大学というのも実在しているし、かつては
大卒の卒業証明書があれば一部の国家試験の
科目が免除になったようなこともなくなり
ました。 
 つまり、大学がかつての高校の役割を
やることにして、研究はしなくてもいい
というような方向になってきてるんです。

 
 ご質問者の方、少し前の大学を
知らないとよく分からないかもしれ
ませんが、現在、理系の大学でも学会
発表はおろか、卒業研究をしなくても
卒業できるところがあるんです。
以前は考えられないことでした。


 ということで、博士号まで持っていて
専門知識を認められた教授は研究に
専念すればいいし、それとは別に
高校化した現在の大学で教育に
専念する先生がいればいいんです。



>大学のチューターですが、そのチューターが教育者になりきれているかが問題になりますね。

 教育者である必要なんてないんです。
年の近い先輩の話のほうが
分かり安い場合があるという利点を
使っているわけです。

投稿日時 - 2005-03-21 22:43:57

お礼

回答ありがとうございました。そのアイデアはすばらしいですね。いまのところ賛同してしまいました。

北野たけしが東京芸術大学の教授になったそうですが、「あれはなぜ?」という感じがしていました。よくよく考えてみれば北野たけしは教えることに特化すればよいわけですね。それなら合点がいきました。

大学が今後、高校になり変わって、大学院が研究する場所になれば、うれしいですね。
話を聞いてちょっと大学院に行きたくなりました。

投稿日時 - 2005-03-22 06:58:51

ANo.10

No.9で書かせてもらったbascavilです。

>その原則論を楯になまけている教授が多いのはどうでしょうか?その原則論をいってしまうと日本の教育は一向に変わらないと思うのです。

というのはその通りですね。
ただ、「ちゃんと教育をして生徒を育てる」ってのがよく分からないんです。

(「教科書棒読み」ってのは論外ですけどね。だって、これっておかしいですもん。教壇で学生の前で、平気でそれができるのは、そもそも人間として普通じゃない。質問者さんのいた大学の学部でそういう先生って何人いましたか?私の学部時代には、一人いましたね。で、こういうどうしようもないのは、どんな組織にも一定数いるので排除は不可能ですので、こういう感性のおかしいのは論外としましょう。)

例えば、私が学部時代に大好きだった教授の講義(法学部政治学科です)を紹介しますと、その先生は、自分の研究ノート一冊を手に、延々時間いっぱい知っていることを学生にぶつけるんですね。最近の研究動向、読んでおいたほうがいい文献、その学問の歴史、さしあたってどういう手順で調べ物はするべきか。そんなことを板書ゼロでとにかくぶつけてくるのです。

私は、必死で先生の言葉から自分が重要と思うことをメモし、よく分からないことは、とにかくメモし、講義が終わったら、図書館でさっきの講義の意味を検討し、文献を探し、「どうやらこういう体系のなかで、ああいう講義になったんだな。すると、講義の要点はこういうことか」とか考えたもんです。こうして、思考力や、調査能力を鍛えました。
大学で学ぶ専門知識自体は、実社会ではそのまま役に立たないわけですから、むしろこういう思考力や調査能力の基礎を鍛える意味でも有益だったと思います。

ところが、最近、この先生の講義は学生のアンケートで最低点を得ていることを知りました。「板書しろ」、「何が要点かわからない」、「早口だ」、「文脈がとれない」、「情報量が多すぎる」等々・・・。
私なんかは、大学生なんだから、重要なことは自分でメモすべきだし、自分で調べるべきだと思うんです。そういう訓練をつむのが大学であって、そういう訓練をつんでいるからこそ、実社会でよい仕事ができるんじゃないかと思うんです。
だから、これって環境が変化したんじゃなく、学生の怠慢が大っぴらに言えるようになっただけなんじゃないかと思うんです。

で、「ちゃんと教育をして生徒を育てる」とは何かという問題に戻るんですが、これは、要するに手取り足取り教える、学生の習熟度に合わせて講義をすすめる、日頃の悩み相談にも乗ってあげるということなんでしょうか?

投稿日時 - 2005-03-21 21:53:05

お礼

回答ありがとうございました。

>こういうどうしようもないのは、どんな組織にも一定数いるので排除は不可能

確かにそうですね。ちょっと答えが見出せました。

>講義が終わったら、図書館でさっきの講義の意味を検討し、文献を探し、

そういう姿勢は必要ですよね。と同時に、どういう講義かわかりませんがその講義は乱暴、粗悪だな、と思いました。いくらすばらしいことを言ってても・・・。

大学の授業も高校と同様に文科省からカリキュラムが指定されていると思うんです。そのカリキュラムに沿った授業なのか、思いつきで話しているのか?

最低限、話者は相手に通ずるように話すことも必要だと思うんです。聞き手もそれなりに勉強する必要もあります。お互いが歩み寄らないとわかりあえません。

>大学生なんだから、

幼稚な学生はた~くさんいることは知っています。そんな学生のレベルに合わせていられないですよね。

と同時に、大学は学生からお金をもらっている以上、「大学生なんだから、」という言葉で学生任せにするのではなく、良質の学べる環境は作っておくべきと思うんですね。

学生は少なくとも先生の研究成果にそれほど興味はなく、お金を払っているのだから、それに見合った授業を提供してくれ!と願うばかりでしょう人が五万といます。それを無視し続ける大学教授の姿はある意味立派ですね。

>「ちゃんと教育をして生徒を育てる」とは何かという

極論を言えば、まかせっきりの教育よりも手取り足取りの授業をした方がよいと思います。まかせっきりの教育をしていて学生の自立心などが芽生えるかどうかは疑問なところです。幼稚な学生の潜在能力を引き出すような努力は大学もするべきかもと結論に至りました。

投稿日時 - 2005-03-22 06:55:03

ANo.9

原則論をいうと、大学生っていうのは、「大人」とみなすんですね。で、大学で自分のやり方でものの考え方を模索してくだいというスタンスなわけです。その過程で、教官に意見を求めるなり、利用してくださいと。教官は、これを拒否してはいけないと。

つまり、大学の先生って手取り足取り教える教師ではないわけですな。学生は専門家である教授たちから、何かを盗むことを目的に講義やゼミに参加するというのが原則だったのです。

大学教授って、そもそも「教育方法」は勉強したことないわけです。学部を卒業して、大学院修士課程・博士課程と進むわけですが、この間、ひたすら研究してて、さらに言えば、この研究過程でも自分の指導教官から「指導」なんか受けていないわけです。施設だけ大学から利用させてもらっていて、あとは自分ひとりで研究してきたんですね。指導教官の仕事は、ハンコを押すことと、推薦状の作成なんですね。こういう環境で、博士となり教授となった人たちですから、新入生はびっくりするわけです。

ただ、高校以下の先生方と違う、独特の迫力ってのがあって、学生の側が優秀だと、この辺の「本物具合」ってのが分かるんですね。「ああ、高校教師とは違うな」という。大学というところが、自分で自分を鍛える場所だとするなら、教官というのは、「凄い研究の人」であるほうがいいんですよ。教育者なんてうざいだけです。

でも、時代は変わりましたね。
ただ、よい大学の先生って、自分の研究が好きで、面白くて仕方ないって人だというのは変わらないと思います。こういう人の講義は下手でも、何らかの感化力がありますから。
逆に、自分の研究にそこそこの見切りをつけて、教育に重点を置いた教授には魅力がないですよ。なにか、枯れた感じがして・・・。
こういう人の説く、人生観なんて参考にならないです。

投稿日時 - 2005-03-21 14:47:34

お礼

回答ありがとうございました。その原則論を楯になまけている教授が多いのはどうでしょうか?その原則論をいってしまうと日本の教育は一向に変わらないと思うのです。以前はその原則論が通用したかも知れません。でも、環境が変わる以上、原則論もシフトする必要があります。徐々に理想に近づきつつありますが・・・。

最後の方はかなりうなづけました。

投稿日時 - 2005-03-21 20:31:51

ANo.8

私はいま、国立大2年生の者です。
質問者さんと同じような疑問、というか不満を私も持っています。自分の研究が重要だという教員は多いと思います。でも、それは、大学側が研究成果・論文数などで教員を評価しているからだと、教授本人から聞いたことがあります。
人間はどんなに高徳な教師であれ宗教家であれ、世俗的な欲求(出世欲・金銭欲など)はあるはずです。彼ら大学教員が、出世したり、学界で着目されるためには、学生にいかに教育しているかという評価しにくい側面で力を発揮するよりも、文系であれば論文を何枚書き上げたか、何回講演を行ったか、何冊著書を書き上げたかが大切になると思います。理系はさらに顕著で、やはりどの学者も新説・新定理・新学説の発見に余念は無いはずです。となると、「教育」者としての能力は客観的に評価しにくいりにたいして、「研究」者としての能力は客観的に評価しやすいと思います。ですから、大学側も、教授陣には研究成果を上げるように葉っぱをかけていると思います。

理想的な教授とは、やはりこういう状況がある中でも、少しでも「教育者」としてのウエイトを高めようと努めている人のことだと思います。特に、学生との人間的な交流を大切にしているとは尊敬できますね。

私の場合、たくさん教授が大学にいる中で、本当に信頼している先生は今現在、ひとりしかいません。その先生は、本当に親身になって勉強以外の私の身辺上の問題にも耳を傾けてくれ、いつでもメールを受け付けていて、一両日以内に返信をしてくれます。また大講義を行っているのにも拘らず、授業中、学生の顔と名前をしっかり覚え、たくさん指名していて、顔と名前を覚えてくれるところも尊敬しています。
いまのところ、この先生一人しか尊敬できる人とは出会えていませんが、むしろこの先生と出会えただけでも幸せだと思っています。
だって、ほとんどの大学生は大学教員に失望して、卒業していくのですから。

投稿日時 - 2005-03-21 14:41:30

お礼

回答ありがとうございました。まさしく生の声ですね。大学教授に見せたいくらいです。

ふと思ったのですが、私が教員なら体よく学生にはうまく教えているように見せて、研究に力を入れちゃうと思います。やっぱり出世心を忘れられません。

投稿日時 - 2005-03-21 20:27:08

ANo.7

吉村って、早稲田で古代エジプトの研究で
有名な吉村作治さんのことでしょうかねー

 だとすれば、こうゆう時代背景があるんです。

 1980年代、早稲田大学は、大学を
切り捨てるような方向に経営側が動いて
いて、18歳人口が減って定員割れ
するような学部、学科があったらそこは
潰せばいいと上の人たちが言ったことが
あって、学生側からも批判の声が
あったんです。

一部の学科の建物が大学の校舎に
してはあまりにも豪華ですが、
これは学部、学科を潰した後、
そこをビジネスホテルにする
計画があったからです。

記憶違いでなかったら、1990年代にできた
リーガロイヤルホテル東京というホテルがあるところが
早稲田の土地だったと思います。
http://www.rihga-tokyo.co.jp/academy/index.html
今でも早稲田の創始者、大隈さんの大隈
庭園にこのホテルが繋がっているはずです。


 学部や学科を潰すということは、当然
研究室や資料館も無くなるということで、
高等教育や研究をあまりにもバカにした
暴挙なわけですが、当時は早稲田の学長
さんまでが、「学生のレベルは全体的に
落ちてるし、まともに研究できる人も
減っている。入試問題作成すらできない
人がごろごろいる。大学の学部で高等
専門教育なんてもうできる状態じゃなく
なってきている。」と言っていたんです。

 大学が先生と生徒の集まりということになったら、
小、中、高校や予備校と変わりありません。
子供の数が減ったら廃校にすればいいと
いうことになる。

 でも早稲田あたりが例え一部の学部でも
消えたら、研究成果の蓄積や資料が
散らばることになり、その研究分野全体に
にとって大問題です。

 しかし、資料があったて、研究できる
能力のある人いないんじゃないですか?
それが高等研究機関と言えますか?
と言われたらどうしようもないわけです。

 ですから、教授はまず研究者である必要が
あり、学生は教えてもらうのではなく、
研究成果を積極的に学ぼうという
方向性が重要なんです。


>抽象的ですが、理想的な教授の姿とはどういうものでしょうか?

 教授に学生の教育全てを押しつけるような
仕組みが問題なんです。特に今のように
入ってくる学生のばらつきが大きいときには。

 日本の大学や一部の予備校でもやっていますが、
アメリカの大学にはチューター制度というのが
あって、教授の授業と並行して、学生を
学力別にグループわけするなどして
そのフォローを大学院生などがやると
いうものがあります。
 以前同じ講義を受けたことのある大学生
なら、学生がどこでつまずきやすいか
よく分かるので、要点を得た、学生に
わかりやすい説明ができるわけです。

参考URL:http://www.gakubun.co.jp/ad_adwords_b/lecture/a23.html

投稿日時 - 2005-03-21 14:21:00

お礼

回答ありがとうございました。ひとつの方法としてよいですね。二束のわらじもむずかしい、一足のわらじも意味がない、ならば両者を用意すればよいわけですね。

大学のチューターですが、そのチューターが教育者になりきれているかが問題になりますね。

投稿日時 - 2005-03-21 20:23:23

ANo.6

僭越ながら,教員の立場から一言.

大学の教員である以上,学生のニーズに応えることができないといけないと思います.
たぶん「二束のわらじをはいて・・・」が正解なのでしょう.

ただ,大学の教員には本当にさまざまな人がいます.
だれが理想かは分かりませんが,どう見ても理想でない教員もいると思います.
学生サイドからすれば,ゼミなどで選択の余地があるものはそれを最大限に利用して教員をセレクトするべきでしょう.ひいては大学そのものを選択することになるのでしょうか.

また,学生にも生徒とは異なり,生徒プラス研究者(の卵)といった感覚が必要だと思います.

投稿日時 - 2005-03-21 12:49:50

お礼

回答ありがとうございました。短い回答のなかに重みがあります。

これまで大学は研究者という意見と二束のわらじという意見があり、私は前者には同意できませんでした。二束のわらじもはければいいのですが、そんな器用な人が大学の世界で働くかも疑問です。一足のわらじでは研究できなくなり、なにも生み出さない大学になってしまいますね。

学生にもいろんな人がいて、真面目な学生も多くいるので、そういう人たちが育つ環境整備が必要だと思います。

投稿日時 - 2005-03-21 20:19:52

ANo.5

大学教員の役割は,他の方も指摘されているように,
「研究」+「教育」ですね。
参考URLによると,さらに,「大学そのもののために働く」「壁を越えて社会と大学をつなぐ」「大学を変える」といったことも書かれています。

研究は,これまで得られている学問上の知見の上に,新たにオリジナリティの部分をつけたし,学問を一歩前進させることです。
学部(大学)における教育は,これまで得られている学問上の知見を,学生に伝達することを,まずは基本とし,さらに,新たな知見を見いだすための学問的な方法論を伝達することにあります。

卒業研究(卒論指導)や調査研究法などの演習科目は,主に,後者のにねらいがあります。
それ以前の講義は,前者にねらいがあります。
講義科目では,学問上の知見を伝達することに主眼があるので,往々にして,何年も同じテキストでということはありえます。

学校あるいは学部(学問領域)によっては,
講義と演習のバランスがうまく組まれているところもあるし,逆に講義科目ばかりのところもあります。

だから,一人の教員に着目したときに,講義科目を専門に担当する教員であれば,学生を育てていないと言われてしまうのは仕方ないことです。演習科目でこそ,その教員の真価が問われるべきです。

参考URL:http://oriko.cup.com/Kimama/kyouin.htm

投稿日時 - 2005-03-21 09:46:35

お礼

回答ありがとうございました。私は仕事をしていますが、仕事には工夫が必要だと考えています。

つまらない仕事に思えても、頭をこらして考えてみると人に喜ばれる仕事になります。大学教授に怠慢がないか?というとやはり世の評判に同意する次第です。

投稿日時 - 2005-03-21 20:16:21

ANo.4

 基本的に、教授は研究者である比重が大きいと思います。大学の先生は、高校までの先生とは違います。授業にも、質問者も経験されたように、いろいろ工夫してくれる先生もいれば、自分の著書をテキストとして使って、自分の考えを発表するスタイルなど。
 高校までは受け身の授業でしたが、大学は本当に「自分から学ぶところ」です。先生といっても学級経営をしてくれるわけでもなく、生徒を育てる事は、教授の仕事とは言えないでしょう。
(義務教育でもないのですから。)
 自分から、質問をぶつけなければ、答えてくれません。それに、「高校までのように明確な答え」ではなく、「自分で答えを導くためのヒントや考え方を」示唆してくれるだけで、答えそのものを教えてくれるわけではありません。(質問にもよりますが。)
 私達を研究者の卵と考え、私達の初心者の疑問などから新たな視点や考え方に気付く時があると言っています。生徒と共に学ぶ姿勢を大切にする教授が、私は好きですね。

投稿日時 - 2005-03-21 07:35:47

お礼

回答ありがとうございました。私がアメリカの大学に留学したとき某大学の授業は「教えること」をしっかりやっていました。

大学教授が質問しに来い、という考えか、そうでないかで日本の教育界のレベルは相当違ってくるんだと思いました。

投稿日時 - 2005-03-21 20:13:55

ANo.3

>「教授は先生ではなく、研究者でなければならない。研究した成果を学生に還元するのが仕事だ。でも、いまの教授は先生になっている人が多い」

今の大学生達の現状にあわせると、こうなるのかな?とも思いました。

>ちゃんと生徒を育ててくれればいいのですが

大学教授を擁護するわけではありませんが、学生の姿勢にもよるのではないでしょうか?

学ぶ人間の姿勢として、大学生にもなって他人に育ててもらうことをまるなげ期待しているのが、
まずおかしな発想だと思いました。

大学の先生を高校までのそれや、学習塾の先生と同じレベルで見ることはちょっと違うのでは?と思います。

私の経験上、教授に自ら求めなければ、何も与えてくれないものだと思いました。

理想的な教授の姿は、学生に学ぶ姿勢が旺盛なら、互いが理想的になるわけですし、
教えを求める方にその姿勢がない場合、教授の姿もくっきりとは見えないと思います。

投稿日時 - 2005-03-21 07:08:18

お礼

回答ありがとうございました。

一理うなづけるものの、だからといって授業料から給料をもらっている教授がふざけた教え方をしてはいけないと思います。そういう教え方をしていれば当然淘汰されるでしょうし、国際的レベルも低く見られるでしょう。

私の学生の頃は真面目な学生もたくさんおりました。システムの問題が大きいんだと思いました。

投稿日時 - 2005-03-21 20:11:26

ANo.2

簡単にいうと本来、大学は自分で勉強する所なわけです。授業は、導入であり、そこから勉強しなさいということです。講義は、1コマ予習をして、1コマ受けて、1コマ復習して半期終わって2単位というのが本当なのです(文科省の基準)。この予習復習というのはただ教科書を読むのではなく、関連の分の本などを読んで知見を深めることを当然のことながら含みます。

さて、教授が本当に教えるべきことは、自分の成し得た新しい知見を学生に教えることです。言うまでも無くこのためには、新しい知見を研究によって見出していることが必要です。つまり、教育の前に研究が必要なわけです。

実際には、新しい知見を教える前にもっと基礎的なことを教える必要があるために、すでにある教科書等で教えることが必要になるわけです。極論すれば、本当に教えるべき事を教えるところまで講義では行ききらないということになります。

したがって、結果的に残念ではありますが講義では、すでに知られていることを中心に、最後にやっと最新の知見ということで自分の研究成果を盛り込むという程度に済ませ、本当の教育は、卒研以上でどうぞということになるケースが多いことになります。

同じ学士卒でも1つ一つの講義に対する取り組みは1人1人違いますから得られることも千差万別です。私が学生のころも、教科書棒読み的な先生がおられましたが、私は、たまたまその先生の講義分野に興味があったものですから、可能な限り質問に行き、現在研究者をしています。

投稿日時 - 2005-03-21 06:42:23

お礼

回答ありがとうございました。教科書棒読みの先生でも学ぶべきことはあるということですね。確かに、という部分と、本当にそうだろうかといまだに結論がでないでいます。

投稿日時 - 2005-03-21 20:08:17

ANo.1

>教授が二束のわらじをはいて研究もし、ちゃんと生徒を育ててくれればいいのですが、そんな大変なことをやってくれる人はごくまれだと思います。

仰るとおりだと思います。ですが(現実的に完璧に両立できている教授がいるかいないかは別として)大学教授に求められるのはその二束の草鞋を履くことなんですよね。

理工学部の場合、研究室に常駐している学生数(修士課程・博士課程の院生)が比較的多いため、研究室全体でいくつかのプロジェクトを進めているケースが多いです。こういう場合、指導教員である教授は、「研究を進めること」≒「学生を指導すること」となることもあります。学生が高いレベルの研究を行うことで、研究室全体のレベルも上がり、結果的に教授の成果に繋がるわけです。文学や哲学など、各個人の研究、という色合いが強い学問分野ではなかなかこうはいかないとは思いますが。

大学という機関は、教育機関であると同時に研究機関です。近年、産学共同参画の事業プロジェクトなどが話題になってきましたが、こういった側面から見ても、教授という立場にある人は、教育者と研究者のどちらを重視するべき、というのではなく、やはりバランスよく力を注がなくてはならないのだと思います。

ただ、中学生・高校生のような「先生と生徒」という関係ではなく、「教授と学生」という関係にならなくてはならいと思います。つまり、「先生」からただ一方的に教えを受ける「生徒」から、「教え授ける者」と「学び生きる者」という互いに自立した関係になる必要があるのだということです。なんでこんなことを書くかといいますと、

>ちゃんと生徒を育ててくれればいいのですが

この部分に引っかかったのです。教授はもちろん学生に指導するわけですが、学生側が「教えてくれる」「育ててくれる」という立場でいては決して良い環境にはなりません。学生に「自ら進んで学ぼう」という姿勢があってこそ、大学という機関が、人の教育と、学問の研究の両立を果たすことができるわけですから。

投稿日時 - 2005-03-21 06:14:48

お礼

回答ありがとうございました。二束のわらじをはくことを求められているのですね。ただ、一足のわらじをちゃんとはけないのに二束のわらじを履くという考えは大学教育は進歩しない気が・・・。

確かに学生が育ててもらおうという考えではいけまsねよね。ただ、いまの大学は学びたい人にとっても不都合があるのですよね。

投稿日時 - 2005-03-21 20:04:52

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